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佐々木朗希が投げなかった“登板回避”…決勝相手だった花巻東の監督が明かす本音「私も大谷翔平の登板を回避した」天才を育てる“苦悩”
text by
柳川悠二Yuji Yanagawa
photograph byAsami Enomoto
posted2024/08/24 17:23
2019年夏、岩手大会決勝の試合後。佐々木朗希は登板せず、花巻東に敗れた
「1年生のうちから無理をさせて投げさせることはできなかった。翔平が2年生だった2011年秋の東北大会準決勝(相手は光星学院、現・八戸学院光星)は、翔平が投げていたら、センバツに出場できたかもしれない試合だった。その時は登板を回避しました。ドクターと相談し、ご両親とも話をし、もちろん本人とも話をして、『投げさせない』という最終判断を下しました。そして他の選手たちにも起用しないことは説明して戦いました」
大谷は野手として出場するも、8対9で敗戦。光星学院が明治神宮大会で優勝したことで、翌春のセンバツ切符は手にしたものの、佐々木洋にとって苦渋の決断を迫られた秋だった。
花巻東は佐々木朗希をどう見ていたか
佐々木洋ならば、甲子園を目前にしながら、エースを投げさせない判断を下した大船渡の監督・國保陽平の心中も察せられるのではないだろうか。
「あの時の朗希君の疲労の状態がどれほどだったのかわかりませんし、もしかしたら可動域に制限があるような状態だったかもしれません。チームの内情は私にはわかりませんから、國保先生の判断が正しかったどうかなんて一概には言えません。ただ、個人の体を守りながら、チームを強くしていくという作業は、本当に難しいことなんです」
当時の花巻東のエースは、西舘勇陽だった。
「素材もスケールも違うんですけど、『(朗希に)負けないように頑張ろう』みたいなことは伝えていたと思います」(佐々木洋)
西舘は花巻東を卒業後、中央大学に進学し、東都大学野球リーグを代表する右腕に成長した。昨年、巨人からドラフト1位で指名される直前に行ったインタビューでは、かつてのライバルについてこう語っていた。
「初めて見たのは高2だったと思いますけど、高校野球の中にひとりだけプロ野球選手がいるようだった。自分と比較することもなかったし、常に遠い存在で、(23年の)WBCもいちファンとして見ていました(笑)。対戦したいとは心のどこかで思っていても、ライバルとはとても言えません」
当時、花巻東を強豪に押し上げた佐々木洋や、西舘のように岩手で野球を志していた球児にとっても、佐々木朗希は異次元の存在だった。そんな怪物の卵を預かったのが、佐々木が入学したタイミングで花巻農業より大船渡に転勤となり、19年の決勝当時は32歳になっていた國保だった。