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甲子園史に残る“東洋大姫路・アンとの死闘”…「20年前の主人公」花咲徳栄エースが明かす“サヨナラ暴投の予感”

posted2023/03/24 11:01

 
甲子園史に残る“東洋大姫路・アンとの死闘”…「20年前の主人公」花咲徳栄エースが明かす“サヨナラ暴投の予感”<Number Web> photograph by JIJI PRESS

20年前のセンバツで伝説の引き分け再試合となった花咲徳栄VS東洋大姫路。当時エースと監督が舞台裏を明かす

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田口元義

田口元義Genki Taguchi

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20年前、花咲徳栄のエースとしてチームを甲子園ベスト8に導いた福本真史。現在は同校コーチを務める男が明かすセンバツの記憶。後編は「41年ぶり“引き分け再試合”」の回想。〈全2回の後編/前編へ〉

 花咲徳栄の福本真史が2003年のセンバツで投げた球数は、6日間で569球だった。「1週間500球」の投球制限が実施されている現在では、到達不可能な領域である。

 母校でコーチとして現役世代を育成する立場となった福本は、当たり前のように03年の自分を受け入れている。

「今でこそみなさんから『大変だったね』と言われますけど、私が大学時代に高校の時のことを取材していただいても『投げすぎ』とか、そんな話にはなりませんでしたから。時代なのかなって思いますね」

なぜ投げ切れたのか?

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 03年の花咲徳栄で福本は、絶対エースだった。下級生の頃から実戦経験を積み、最上級生となった2年秋からはほぼひとりで投げ抜いてきた。監督の岩井隆も「福本と心中みたいなところはありました」と認めるほど、チームの命運を握る存在だった。

 だからといって福本は、いわゆる「腕がちぎれるまで投げろ」のような根性論を指導者から押し付けられ育ってきたわけではない。むしろ、エースとして全試合で投げ切るだけのスキルや体を作り上げてきたと言っていい。

 もともと制球力に長け、奪三振を多くとれるタイプのピッチャーではなかった福本は、スライダーとカーブ、スプリットを駆使し、打たせて取るピッチングを身上としていた。そしてシーズンオフには、センバツから夏にかけて連投に耐えうるスタミナを養うべく、計画的にブルペンで投げた。1日60球を週に4日間。緩急をつけながらコースにボールを通す。ストレートも7割、8割、10割と強弱をつけるピッチングを体に染み込ませた。

 当時のエース育成について、岩井はこのように持論を説く。

「ブルペンで投げさせることは、いろんなテクニックを覚えさせることにもなるんです。結果として500球とか数字だけが出るとビックリされるかもしれませんけど、あの当時なりに管理してきたつもりです」

 このバックグラウンドが発揮されたのがセンバツ、とりわけ準々決勝だった。

【次ページ】 ベスト4をかけた「伝説の試合」

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