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プロ野球PRESSBACK NUMBER
「ええ投手になるで!」清原に絶賛された高卒ルーキーは、なぜたった“2勝”で引退したのか? 星野も落合もホレた天才右腕の悲劇と今
text by
栗田シメイShimei Kurita
photograph byKYODO
posted2024/04/23 11:20
ルーキー時代の中日ドラゴンズ・中里篤史(2001年)
懸命のリハビリの成果もあり、2004年秋にようやく投球が出来るほどに回復した。
そして、徐々にファームで登板機会を増やし、翌2005年10月の広島戦で実に1469日ぶりに一軍のマウンドに返り咲いた。
この日、中里は「無事でいてくれ」という願いも込めて右肩と右肘にグラブを当て、スタンドへ向けて深々と頭を下げた。2三振を含む3者凡退に抑え、球速表示は148キロを記録。中里の復帰を祝うように打線が奮起し、プロ初勝利のおまけもついてきた。首脳陣からの「来年投げられるということを見せて欲しい」という要望に、一発回答をして見せたのだ――。
落合博満も立浪和義も山本昌も絶賛
中里の野球センスを表すエピソードは事欠かない。
例えば山本昌は「野球センスが凄い選手として真っ先に名前が挙げるのが中里。脚も速く、バッティングも守備も投げるのも凄かった。センスが本当に凄かった」と明かしたことがある。
実際にキャンプのフリーバッティングではレフト、センター、ライトと指示があった順番に軽々と柵越えを連発し、ライト方向では場外弾も放っていた。その半数は柵越えだったというから驚きだ。
そんな中里をみて、立浪和義や仁村徹からは「お前は打者をやるべきだった」と今でも会う度に声をかけられるという。
それでも、中里の素質を誰よりも評価していたのは落合博満監督(当時)だったのかもしれない。入団当時「28番」だった背番号が「70番」へと変更される際、実はこんな一幕があった。
◇◇◇
後編では、落合監督と交わした知られざる約束のほか、二度の戦力外通告、印象に残っている投手を赤裸々に明かしている。
(後編に続く)