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「電話でプロポーズした」巨人・原辰徳、異例の婚約会見で妻は泣いた「いろんな障害がありました」…アスリートの結婚式がド派手だった時代
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph byJIJI PRESS
posted2024/03/09 11:04
1986年11月27日、巨人・原辰徳の結婚式(東京・千代田区の赤坂プリンスホテル)
《故中村清先生(引用者注:瀬古を育てた早大競走部監督)に、よくいわれました。『いいか、山下は立派だぞ。あの男に負けちゃいかんぞ』と。しかしながら、オリンピックでは差をつけられて、彼は国民栄誉賞、僕は都民栄誉賞(爆笑)。僕もこの赤坂プリンスホテルでオリンピックのあとすぐに結婚しましたが、直後、腰がグラついているなどとよくいわれました(爆笑)》(『Emma』1986年6月10日号)
山下と夫人は結婚前、デートしているところを芸能週刊誌に撮られ、交際があきらかとなる。これもアマチュアスポーツの選手では前例のないことだった。夫人はもともと山下のファンで、勤務先である銀座の高級品店に彼が来店したのをきっかけに、ダメ元で自分の写真を3枚同封した手紙を送ったところ、2日後に返事の電話があり、交際を始めたという。このエピソードもマスコミの格好の話題となった。
“2億7500万円”の披露宴
こちらはアマチュアではなくプロだが、自転車世界選手権で10連覇を果たした競輪の中野浩一は1986年9月29日、元歌手の女性との婚約会見で、プロポーズの言葉は「僕のパンツ洗ってください」だったと明かして話題を呼ぶ。いまなら物議を醸しそうな発言だが、当時はおおむね好意をもって受け止められた。結婚するまでの獲得賞金は通算8億6000万円という競輪界のスーパースターとあって、翌1987年1月30日の新高輪プリンスホテルでの披露宴も総額2億7500万円をかけた豪華なものとなった。
このころには、一般人のあいだでも結婚式・披露宴を豪華に行う傾向が強まっていた。そこには、メディアで大々的に報じられるスポーツ選手や芸能人の挙式の影響もあったのだろう。他方で、80年代には、『FOCUS』(新潮社)や『FRIDAY』(講談社)、前掲の『Emma』(文藝春秋)などといった写真週刊誌が出版各社からあいついで創刊し、隆盛をきわめた。そのなかでスポーツ選手の恋愛や結婚も格好の特ダネとされ、スター選手ともなればカメラに追い回されることになる。
原辰徳、異例の婚約会見「いろんな障害がありました」
当時の巨人の主砲・原辰徳もマスコミから終始マークされていたため、交際中だった夫人とはなかなか表立って会えず、電話で話すことが多かったという。プロポーズも電話でだった。