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「イチローを止めることはできなかった」ボビー・バレンタインが明かす、1995年イチローの衝撃「もっと早くメジャーに行くべきだった」 

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ボビー・バレンタイン&ピーター・ゴレンボック

ボビー・バレンタイン&ピーター・ゴレンボック"Bobby" Valentine&Peter Golenbock

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photograph byHideki Sugiyama

posted2023/12/09 06:01

「イチローを止めることはできなかった」ボビー・バレンタインが明かす、1995年イチローの衝撃「もっと早くメジャーに行くべきだった」<Number Web> photograph by Hideki Sugiyama

1994年にシーズン200本安打を達成したイチロー。翌シーズンにロッテの監督となったバレンタインはイチローを見て驚愕した

 だが広岡さんは、ピートをトライアウトに呼ぶと言って聞かなかった。ピートの代理人は、私の代理人でもあるトニー・アタナシオだったので、連絡は簡単に取れた。結果、インキーはトライアウトにやってきた。ロッテは最高の元投手を打撃投手に使い、彼が投げた初球をインキーはセンターフェンス越えのホームランにした。広岡さんは目を見開き、笑顔になった。インキーこそ、今必要な男だと確信したようだった。契約が成立し、私はクリスマス休暇で自宅に戻った。

1時間をかけてイチローについて話し合った

 秋季キャンプが終わると、広岡さんは私が居心地良く指揮が執れるように、春季キャンプの前半3週間をアメリカで行うようオーナーに提案してくれた。彼はサンディエゴ・パドレスと交渉し、パドレスがアリゾナ州ピオリアに新しく建てた施設を使う段取りを付けてくれた。100人の人間を東京からアリゾナへ移動させ、すべての用具と相当量の米を一緒に運ぶのは、容易なことではなかった。日本人が食にこだわることを知るまでは、米まで運ぶなんてとんでもないことだと思っていた。我々はアリゾナ州のどこだかわからない場所にあるモーテルを借り切った。一切開発されていない土地だったが、我々はキャンプを行った。日中はグラウンドで練習し、夜間練習にはホテルのプールエリアや駐車場を使い、3週間かけて身体作りをした。

 ピオリアには、トム・ハウスと打撃コーチのトム・ロブソンが一緒にいてくれた。朝からの練習と夜間練習の間に夕食の時間があり、さらにコーチ全員とGMと共にミーティングを開き、今日あったことを確認し合った。さらには、開幕後最初に対戦するオリックス・ブルーウェーブについても話し合いを始めた。

 最初の1時間半で相手の投手と野手全員を分析し、5分の休憩後、さらに1時間をかけてひとりの選手、鈴木一朗について話し合った。入団当初彼のユニフォームの名前は「SUZUKI」だった。オリックスは1994年に仰木彬さんを監督に迎えていた。仰木さんは革命的で、日本人にとってはやや過激だった。彼は鈴木のユニフォームの名前を「ICHIRO」に変えた。完璧なタイミングだった。私は、イチローにしても鈴木にしても、ほとんど聞いたことのない名前だった。

【次ページ】 鈴木を見るまで待て

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