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「イチローを止めることはできなかった」ボビー・バレンタインが明かす、1995年イチローの衝撃「もっと早くメジャーに行くべきだった」

posted2023/12/09 06:01

 
「イチローを止めることはできなかった」ボビー・バレンタインが明かす、1995年イチローの衝撃「もっと早くメジャーに行くべきだった」<Number Web> photograph by Hideki Sugiyama

1994年にシーズン200本安打を達成したイチロー。翌シーズンにロッテの監督となったバレンタインはイチローを見て驚愕した

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ボビー・バレンタイン&ピーター・ゴレンボック

ボビー・バレンタイン&ピーター・ゴレンボック"Bobby" Valentine&Peter Golenbock

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Hideki Sugiyama

 2005年にロッテを日本一に導いたボビー・バレンタイン監督。最初に指揮を執った1995年はチームを2位に導くも1年のみの“短命”で終わった。その1年でボビーは伊良部秀輝、イチローといった後のメジャーリーガーと出会う。『ボビー・バレンタイン自伝』(東洋館出版社)で語られたその衝撃とは――。(全6回の第5回/#6につづく)

伊良部を見てもらうため、ノーラン・ライアンを呼んだ

 私は秋季キャンプで伊良部秀輝という投手を見ていたので、彼を見てもらうためノーラン・ライアンとトム・ハウスをアリゾナに呼んだ。日本のメディアが注目する中、ノーランは「世界で最高の肩を持つ投手のひとりだ」と伊良部を評した。

 伊良部は、球速100マイル(約161キロ)を投げられる世界でも数少ない投手のひとりだった。彼が投げるといつもどよめきが上がっていたが、何もかもが日本的なGMの広岡さんにはいつも眉をひそめられていた。伊良部は規律や真面目さからはかけ離れた男だった。誰よりも身体が大きく、父は日本人ではなくアメリカの軍人だった。伊良部はオーバーウェイトでもあったし、ダッシュでは全力で走らず、ビールが大好きだった。

だが広岡さんは…

 浦和での秋季キャンプで、私は広岡さんにヒルマンを残留させ、フリオ・フランコは二塁DHで使いたいと申し出た。彼は同意した。フリオは打率でリーグ3位につけていた。広岡さんは右のパワーヒッターも求めていた。

「テキサスにいいのがいたな」と彼は言った。

「ホームランを30本打った彼だ。しかも獲得が可能だ」

 彼は、ピート・インカビリアのことを言っていた。広岡さんは、センターやライトにホームランを打てるアメリカ人の右打者に心を奪われていた。日本人のほとんどが引っ張っていたからだ。

「うまく行かないと思います。インキーと私は、良い関係で終わっていないので」

【次ページ】 1時間をかけてイチローについて話し合った

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