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「イチローを止めることはできなかった」ボビー・バレンタインが明かす、1995年イチローの衝撃「もっと早くメジャーに行くべきだった」 

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ボビー・バレンタイン&ピーター・ゴレンボック

ボビー・バレンタイン&ピーター・ゴレンボック"Bobby" Valentine&Peter Golenbock

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photograph byHideki Sugiyama

posted2023/12/09 06:01

「イチローを止めることはできなかった」ボビー・バレンタインが明かす、1995年イチローの衝撃「もっと早くメジャーに行くべきだった」<Number Web> photograph by Hideki Sugiyama

1994年にシーズン200本安打を達成したイチロー。翌シーズンにロッテの監督となったバレンタインはイチローを見て驚愕した

鈴木を見るまで待て

「鈴木を見るまで待て」と言われ、鈴木のあれこれを教わり、さらに前年の彼のビデオを見た。その年彼は3割8分5厘の打率を残した。20歳だったシーズンで。彼の成績が、私の目に強烈に飛び込んできた。彼の挙げた数字のひとつは、シーズン210安打だった。私は20歳のときにシーズン211本のヒットを打っている。彼の盗塁数は29個。私は20歳のとき、29盗塁をマークした。彼が80打点をマークしたのは21歳のとき。私は20歳で80打点をあげた。彼はこれらの数字をNPBのパシフィックリーグで達成し、私はアメリカのパシフィックコースト・リーグでこの成績を残した。

 大きなホワイトボードと小さなテレビモニターの前でコーチのひとりが通訳を従え、何日もかけて鈴木のパフォーマンスについて日本語で語っているのは、とても奇妙な光景だった。彼らは鈴木がどの球種を打ち、どの方向に打球を飛ばしたかをすべて表にまとめていた。誰もが、あっという間に彼に魅力を感じていた。イチローは二軍を2年経験しただけで、翌年には一軍で首位打者になっている。天性の非凡さを持った選手だった。日本では、下積みを十分経験しなければ一軍でプレーすることは許されないので、彼はそれほどまでに他とは違う選手だったのだ。完全に違っていた!

アメリカの211cm左腕も攻略

 イチロー擁するオリックスと戦ったとき、我々はあらゆる手を尽くしてイチローを抑えようとした。

 イチローはメジャーリーグにもっと早く行くべきだったが、彼の元監督は彼のバッティングスタイルがあまりにも異端すぎると考えていた。だが、彼を生で見たとき、私は夢中になった。ある試合でイチローがフリオ・フランコへの二塁ゴロを打った。平凡なゴロだったが、イチローは内野安打にした。私はランナーの走る速度を測るためストップウォッチを使っていたが、それを見るとイチローは3.4秒で一塁に到達していた。これは、かつてミッキー・マントル(1950~60年代に活躍したスイッチヒッター)がヤンキースに初めて昇格したときに出したと聞かされたスピードと同じだった。

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