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「J2に落ちても構わない」前代未聞のオファーはなぜ生まれた? ミシャが語る“クレイジーな攻撃サッカー”の歴史〈広島6年→浦和6年→札幌6年〉
posted2023/12/01 11:03
text by
佐藤景Kei Sato
photograph by
Kiichi Matsumoto
北の大地に根を張って、はや6年。自らが信奉する攻撃スタイルを磨き続けるミシャこと、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督はJリーグの中で稀有な存在だ。負けがこめば責任を負ってすぐクビになる監督業を生業としながら、『成績』からは少し離れた場所で信じる道に邁進することを許されているように見える。
2006年に来日してサンフレッチェ広島の監督として6年を過ごし、2012年からは浦和レッズを6年率いた。そして2018年から北海道コンサドーレ札幌を指揮し、まもなく6年目のシーズンを終える。いずれもサッカー界では珍しい長期政権を築いてきた。
合計、18年。Jリーグが今年で創設30周年だから、監督としてその歴史の半分以上に携わってきたことになる。
「まさか18年間も日本で過ごすとは思ってもいなかった。でもこれは喜ぶべき、予想外の出来事だった」
3大タイトル獲得は18年で一度だけ
これほど長きにわたってクラブに求められ続けてきた外国人指導者はミシャをおいて他にいない。2度のステージ優勝はあるものの、手にしたタイトルは浦和時代のルヴァンカップだけ(2016年)。にもかかわらず今年3月4日のアルビレックス新潟戦では、J1で通算525試合目の指揮を執り、西野朗の持つ歴代最多記録を更新した。
クラブ側に、タイトルや単なる成績とは別のところでチームを託す理由があったということだろう。ミシャ本人が明かした、当時の札幌社長、野々村芳和・現Jリーグチェアマンの口説き文句はこうだ。
「私が浦和を解任になった後、札幌の社長だった野々村さんがいち早く連絡をくれた。『来年、札幌で指揮を執ってほしい。われわれは攻撃的なチームに生まれ変わらなくてならない。そのためだったらJ2に落ちても構わない。その代わり継続的に攻撃的なサッカーができるチームを作ってほしい』と。彼の熱い思いに奮い立った。他からいくつかオファーをもらったが、最初に連絡をくれた野々村さんの熱い思いに応えたかった。だから今、ここにいる」