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「J2に落ちても構わない」前代未聞のオファーはなぜ生まれた? ミシャが語る“クレイジーな攻撃サッカー”の歴史〈広島6年→浦和6年→札幌6年〉
text by
佐藤景Kei Sato
photograph byKiichi Matsumoto
posted2023/12/01 11:03
広島6年、浦和6年、札幌6年…Jリーグの歴史を塗り替えてきたミハイロ・ペトロヴィッチ監督(66歳)
2007年の広島時代にはチームが攻撃に偏りすぎたことでJ2降格を経験した。だが「落ちたチームの監督がそのまま翌シーズンも指揮を執ることはなかったし、前例のないことだった」と本人が振り返る、広島の久保允誉会長、織田秀和強化部長(当時/ロアッソ熊本GM)の異例の決断によって、日本で仕事を続けることになる。
果たして広島は勝ち点100を積み上げる圧倒的な強さでJ2を制し(2位山形に22ポイント差)、1年でJ1に返り咲く。そして翌年は4位に躍進。この過程でミシャ式と呼ばれる攻守で形を変える可変フォーメーションも完成をみた。その後の飛躍を知るから野々村社長は「落ちても構わない」と言ったのだろう。
なぜミシャは一貫して攻撃サッカーを求め、実践する信念を持ち続けられるのか。その源泉は少年時代にあった。
貧しい少年時代の楽しみがサッカーだった
「私はユーゴスラビアの貧しい家庭で育ったが、楽しみといえばサッカーで、プレーすることも観ることも好きだった。どうせ観るなら面白いサッカーが観たい。それは攻撃的でアグレッシブなサッカーだ。その当時に培ったものが私の中の深いところにあって、選手になってからは常に人を魅了するプレーをしたいと思ったし、監督になってからもやはり多くの人を魅了する、面白いと思ってもらえるようなサッカーをするチームを作りたいと考えてきた。
良い試合を観たいという思いは、誰もが持っているはずだ。自分のチームのサポーターだけではなく、観る人すべてが『今日は面白かった』と思うことが大事だと私は考えている。そこには当然、勝敗が絡み、喜びと悔しさが存在するが、根底にはいつも良いサッカーを観てもらいたいという思いがある。ユーゴの人々にとってサッカーは生活そのもので、(イビチャ・)オシムさんは私よりも年上だが、同じ思いを持っていた。かつてユーゴは東欧のブラジルと言われ、人々を魅了するそのプレーは憧れだった」
旧ユーゴで育った少年は、一様に攻撃的でアグレッシブなサッカーを好んだ。ミシャが10歳の時に開催された1968年の欧州選手権でユーゴは準優勝を果たすが、タレント軍団と言われたそのチームにはジャイッチがいて、ペトコビッチがいて、そしてオシムがいた。
「誤解してほしくないが、たぶん私はノーマルなタイプではない。どちらかと言えばクレイジーな方だ(笑)」