熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
「ピッチだけじゃない。ベッドの中でも…」“ジーコの兄”エドゥーはスゴい豪傑だった「質問が間違っている!」記者に切り返したワケ
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byHiroaki Sawada
posted2023/09/03 11:03
2004年アジアカップ優勝記念の盾を手にしたエドゥー。自身のサッカー経歴についても語ってくれた
「その通り。1966年、19歳でトップチームの試合に出始めた。クラブからはプロ契約をオファーされたが、1968年のメキシコ五輪に出場したかった。そのためには、当時はアマチュアでいる必要があったから、あえてアマチュアの身分でプレーした」
――1967年、20歳でセレソン(ブラジル代表)に初招集されます。ウルグアイで行なわれたコパ・リオブランコ(ブラジルとウルグアイのA代表どうしの対抗戦)の出場メンバーに招集され、3試合行われたうちの第2戦にフル出場しました。
「誰かがセレソンでプレーするのは家族全員の夢だったから、皆で大騒ぎして喜んだ。私の出来も上々だった。ところが、ある出来事のせいで1968年メキシコ五輪は招集外だったし、以後はセレソンに招集されず、1970年ワールドカップ(W杯)出場を逃した」
“ある事件”のせいで五輪招集を逃した
――一体、何があったのですか?
「当時、ブラジルは軍事政権で、左翼的な思想を抱いていると判断された者は逮捕され、場合によっては拷問を受けていた。リオの警察は、ナンドが共産主義者だと思い込み、逮捕した。拷問して、自白を強要した。ほどなくナンドは容疑が晴れて釈放されたが、この事件のせいで私は、メキシコ五輪に招集されなかった」
――アメリカFCとプロ契約を結び、すぐにレギュラー。チームのエースストライカーとなった。しかし、1967年以降は、セレソンに一度も招集されていない。1970年W杯(注:セレソンはペレ、ジャイルジーニョ、トスタン、リベリーノらが華麗な攻撃を繰り広げ、通算3度目の優勝を遂げた)にも招集されませんでした。
「自分では、セレソンに継続して選ばれ、1970年のW杯にも招集されるに値するプレーをしていたと思う。でも、私がアメリカFCという中堅クラブでプレーしていたのが災いしたのだろう。もしビッグクラブでプレーしていたら、間違いなく招集されていたと思う。また、CBD(注:ブラジルスポーツ連盟。現在のブラジルサッカー連盟の前身)の幹部は軍事政権との関係が深かったから、ナンドが軍事政権に逮捕された件も響いたはずだ」
時期、兄弟3人でチームの攻撃を担ったことも
――一方、ジーコは非常に華奢だったので、17歳のときにフラメンゴから肉体改造を命じられました。1日5度の食事と厳しい筋肉トレーニングを課され、メディアは「サイボーグ選手」と呼びました。