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「ピッチだけじゃない。ベッドの中でも…」“ジーコの兄”エドゥーはスゴい豪傑だった「質問が間違っている!」記者に切り返したワケ 

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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photograph byHiroaki Sawada

posted2023/09/03 11:03

「ピッチだけじゃない。ベッドの中でも…」“ジーコの兄”エドゥーはスゴい豪傑だった「質問が間違っている!」記者に切り返したワケ<Number Web> photograph by Hiroaki Sawada

2004年アジアカップ優勝記念の盾を手にしたエドゥー。自身のサッカー経歴についても語ってくれた

「生まれたときだ(笑)。冗談はさておき、幼い頃から偉大な選手になりそうなオーラを放っていた。ジーコがフラメンゴからデビューする前、ゼッカと私はインタビューを受ける度に、『兄弟の中で一番うまいのは末っ子だ。やがて君たちにもわかるよ』と答えたものだ」

――兄弟4人がプロになって、競争心や嫉妬はなかったのですか?

「そんなものは全くない。誰もが他の兄弟の成功を望み、互いに助け合う。それは、両親からそのような教育を受けたからだろう。私は、自分が成功するよりジーコが成功する方が嬉しいんだ」

カズは当時、必ず1人か2人抜いていた

――その後、あなたは中堅クラブでプレーした後、1981年に34歳で引退。指導者の道に入ります。

「1982年、古巣アメリカFCの監督になり、1984年前半、リオ州選手権で準優勝した。当時のブラジルサッカー連盟の会長がアメリカFCの元会長で、この結果に非常に喜び、そのご褒美としてこの年6月に行なわれたセレソンの強化試合で監督を務める機会を与えてくれたんだ(注:すべて国内で行なわれ、結果はイングランドに0−2、アルゼンチンに0−0、ウルグアイに1−0の1勝1分1敗)」

――その後は?

「バスコダガマ、イラク代表などを率いた後、1989年、コリチーバを率いて州選手権で優勝した」

――このとき、チームにはカズ(三浦知良)がいました。彼の第一印象は?

「テクニックとスピードがあり、ドリブルではほぼ必ず一人か二人、抜いてくれた。主として左サイドでチャンスメイクの仕事をしてくれたが、決定力も高めていた。州選手権優勝に貢献してくれた重要な選手の一人だった」

勝負に徹するより選手の成長を見るのが生きがい

――その後、1990年にボタフォゴを率いてリオ州選手権を制覇。ベラクルス(メキシコ)、スポーツボーイズ(ペルー)など外国のクラブも指揮した後、1994年に鹿島アントラーズのコーチとなりました。あなたの指導者としての特長は?

「自分は戦術を駆使して勝負に徹するタイプの指導者ではなく、選手に技術やポジショニングを教えて彼らの成長を見るのが生きがいだった。だから、日本代表ではテクニカルアドバイザーを務めたし、その後、フェネルバフチェ(トルコ)、CSKAモスクワ(ロシア)、オリンピアコス(ギリシャ)、イラク代表では常にジーコのコーチを務めた」

――2006年W杯後にブラジルへ帰ってきてからは?

【次ページ】 鹿島、日本代表のために働けたことはとても誇り

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