熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
「ピッチだけじゃない。ベッドの中でも…」“ジーコの兄”エドゥーはスゴい豪傑だった「質問が間違っている!」記者に切り返したワケ
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byHiroaki Sawada
posted2023/09/03 11:03
2004年アジアカップ優勝記念の盾を手にしたエドゥー。自身のサッカー経歴についても語ってくれた
「サイボーグというのは、メディアの誇張だ。クラブが彼の肉体強化のプランを作ったのは事実だが、日々、栄養価の高い食事を用意して彼の肉体改造に最も貢献したのは母マチウダだ」
――一時、ゼッカ、ナンド、あなたの3人がアメリカFCに同時に在籍したそうですね。
「1960年代後半、私とゼッカはすでにレギュラーで、兄弟ならではのコンビネーションでゴールを量産していた。そこへナンドが加入し、一時期、兄弟3人でチームの攻撃を担った」
――プロフットボールの世界では、非常に珍しい話ですね。1971年8月、あなたはブラジルリーグの試合でペレ率いるサントスと対戦しています。ペレが1970年のW杯で自身3度目の優勝を遂げた翌年で、彼が30歳、あなたが24歳でした。実際に対戦したペレはどうでしたか?
「テクニック、スピード、パワー、アイディアなどのすべてが別次元。ファウル以外では止めようがない。今のメディアやファンは『マラドーナ、メッシ、クリスティアーノ・ロナウドがすごい』と言うが、それはペレを見たことがない者が言うセリフ。間違いなく、ペレが世界フットボール史上最高の選手だ」
監督は私をジーコの控えとして扱った
――1975年にフラメンゴへ移籍し、今度はジーコとチームメイトになります。
「憧れのフラメンゴで弟と一緒にプレーするのを、とても楽しみにしていた。ところが、監督は『君とジーコはポジションが被る』と言って、私をジーコの控えとして扱った。彼が故障をしたり、セレソンの試合でいないときだけ出場して、二人で一緒にプレーしたことはほとんどなかった。我々には、兄弟ならではの完璧な連携があるというのにね。そこで、出場機会を求めてバイア(ブラジル北部の中堅クラブ)へ移籍。州選手権で優勝するなど、充実した時間を過ごした」
――あなたは、アメリカFCのクラブ史上、2番目に多い通算得点を記録したストライカー。アメリカFCの古いファンは、「エドゥーの方がジーコより優れた選手だった」と口を揃える。あなたは、「エドゥーとジーコはどちらが上か」という問いにどう答えますか?
「それは、質問が間違っている。長男のゼッカも素晴らしい選手だったから、質問は『ゼッカ、エドゥー、ジーコの中で誰が最も優れた選手だったか』でなければならない。数字上は、ジーコが一番優れていた。でも、私もゼッカも、ごく控えめに言っても『悪くない選手』だった」
ジーコは幼い頃からオーラを放っていた
――あなたがジーコの才能に気付いたのはいつですか?