熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
「父死去の3カ月後、姉が事故で即死。兄はドラッグで…」鹿島アントラーズとブラジル名SBジョルジーニョ58歳が“悲惨な苦難”を語る
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byHiroaki Sawada
posted2023/08/13 11:00
ブラジルでインタビューに応じてくれたジョルジーニョ
「右SBにレアンドロ、左SBにジュニオールという、共にブラジル代表の名手がいたが、ジュニオールがトリノ(イタリア)へ移籍したため、左SBの控えとして入団した。ところが、CBのレギュラー2人が揃って故障し、レアンドロがCBへコンバートされ、私が右SBとして起用された。
この年7月、リオ州選手権でデビューし、とてもいいプレーができた。以来、フラメンゴでの5年間、常に右SBとしてプレーした」
――あなたの憧れのジーコは、1983年にウディネーゼ(イタリア)で移籍していましたが、1985年にフラメンゴへ戻ってきました。
「彼と初めて会ったときは、感激で体が震えた。サインをもらったよ(笑)」
セレソンでの初得点、記憶にないな。だって…
――フラメンゴでの活躍が評価され、1987年6月、セレソンに初招集。エクアドルとの強化試合に出場して初得点をあげます。
「後半途中から左SBとしてプレーしたんだけど、あまり印象に残ってない。初得点? 記憶にないな。私はたくさん点を取る選手だったからね(ニヤリと笑う)。本格的にセレソンでプレーしたのは、1988年以降だ」
――1988年のソウル五輪代表に選ばれ、銀メダルを獲得しました。
「準々決勝でアルゼンチン、準決勝で西ドイツを倒したが、決勝でソ連に1-2で敗れた。チームにはGKタファレル、FWのロマーリオとベベットがいた」
――1989年夏、レバークーゼンへ移籍します。その経緯は?
「この年6月、リオでポルトガル代表との強化試合があり、右SBとして先発した。レバークーゼンがボランチを探しており、この試合を視察して『高い技術を持ち、視野も広いから中盤でもプレーできる』と評価してオファーをくれた」
――当時のブンデスリーガのプレースタイルは?
「3バックでマンマーク気味に守るチームが多かった。パワーとスピード重視。激しいフィジカルコンタクトに最初は戸惑ったが、やがて慣れた」
W杯アルゼンチン戦、ワンサイドゲームだったのに…
――チームにはすぐに馴染めましたか?
「クラブは、最初の3カ月だけ通訳を付けてくれた。結果的に、それが良かった。必要に迫られて自分でドイツ語を勉強し、やがて会話には不自由しなくなった。
ただ、チームの中心選手2人から嫌がらせを受けた。僕が入ったせいで、仲の良かったドイツ人選手が控えに回った腹いせらしかった。腹が立ったが『外国のクラブでプレーすると、こういうこともある』と考えて我慢した」
――レバークーゼンでのポジションは?