熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
「父死去の3カ月後、姉が事故で即死。兄はドラッグで…」鹿島アントラーズとブラジル名SBジョルジーニョ58歳が“悲惨な苦難”を語る
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byHiroaki Sawada
posted2023/08/13 11:00
ブラジルでインタビューに応じてくれたジョルジーニョ
「3バックだったので、ボランチか右のウイングバック。この時期に、攻撃力が磨かれたと思う。また、一部の選手から嫌がらせをされても腐らずにプレーしたことが評価されたのか、最後のシーズンは外国人ながらキャプテンを務めた。私の大きな誇りだ」
――1990年W杯の南米予選に右SBとして出場してセバスチアン・ラザローニ監督の信頼を獲得し、W杯でも3-5-2の右ウイングバックとして全試合に先発。しかし、ラウンド16で宿敵アルゼンチンに痛恨の敗戦を喫します。
「内容的には、我々のワンサイドゲームだった。しかし、数ある決定機を決め切れず、たった一度のピンチに失点して敗れた。ドイツでプレーしていた私は3バックに慣れていたが、ブラジルでは例外的なフォーメーションで、CBの連係が十分ではなかった」
バイエルンでなくマドリーに行っていたかも?
――この敗戦でラザローニ監督、そして国内メディアから「守備的スタイルの象徴」とみなされていたドゥンガがメディアと国民から徹底的に批判されました。ドゥンガは、セレソンで再び先発で起用されるまで3年かかっています。あなたも約2年間、セレソンから遠ざかった。この間、どんなことを考えていたのですか?
「ブラジルにとって、W杯でアルゼンチンに負けて敗退するのは悪夢だ。新チームの右SBには僕より若いカフーが起用されており『もう二度とセレソンではプレーできないかもしれない』と思った」
――そして1992年夏、名門バイエルンに移籍します。
「当時、インテル、レアル・マドリーも興味を示してくれていたが、最終的にクラブ間で合意したのがこのクラブだった。もちろん、私に異存はなかった」
――でも、当時、仮に自分で移籍先を選べていたとしたら、どこへ行ったと思いますか?
「レアル・マドリーかな(笑)」
――バイエルンを取り巻く状況は?
「クラブの歴史と伝統、ファンの数と熱狂の度合いが、レバークーゼンとは桁違いだった。でも、すでにドイツで3季プレーしていたから、チームに順応するのは難しくなかった」
――ここでも、すぐに試合に出られたのですね。
「主にボランチとしてプレーした。2年目のシーズン(1993~94年)にリーグを制覇し、翌シーズン、欧州チャンピオンズリーグに出場できたのは素晴らしい経験だった(注:1994年末に退団したため、出場したのはグループステージだけ。チームは、準決勝でこの大会優勝のアヤックスに敗れた)」
――セレソンには、1992年に復帰。1993年後半に行なわれたアメリカW杯南米予選に出場します。チームは第1節でボリビアに敗れるなど大苦戦。最終節(対ウルグアイ)に敗れると史上初の予選敗退という窮地に追い込まれますが、ロマーリオの2得点で勝って予選を突破しました。
「カルロス・アウベルト・パレイラ監督(当時)は、攻守にバランスが取れたチームを作った。南米予選では苦しんだが、メディアと国民から批判を受けて逆にチームがまとまった」
優勝のアメリカW杯で苦戦したのは意外にも…
――W杯アメリカ大会でも苦戦続きでしたが、堅い守りとロマーリオを中心とする攻撃で24年ぶり4度目の優勝を成し遂げます。最も困難だった試合は?
「準決勝のスウェーデン戦だ。自陣に強固な守備ブロックを構築し、攻め手はカウンターと空中戦。我々はいくつかの決定機を逃したが、試合終盤、私の右からのクロスをロマーリオがスウェーデンの長身CB2人に競り勝って頭で決め、これが決勝点となった」
――決勝のイタリア戦では、前半21分、右太ももを痛めて交代しました。
「自分にとってキャリアで最高となるべき試合で、わずかな時間しかプレーできなかった。ロッカールームで治療を受けながら、悔し泣きした。それでも、気を取り直してベンチへ戻り、仲間たちを応援した」
――チームが延長、PK戦の末にイタリアを破って優勝したときの気持ちは?
「人生最高の瞬間。それまでのすべての苦労が報われた思いだった」
◇ ◇ ◇
数々の困難を乗り越えて欧州名門クラブでプレーし、W杯で優勝を成し遂げた。その男が、翌年、創立からわずか3年目のJリーグへ舞い降りる――。
<#2につづく>
記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。