熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
「父死去の3カ月後、姉が事故で即死。兄はドラッグで…」鹿島アントラーズとブラジル名SBジョルジーニョ58歳が“悲惨な苦難”を語る
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byHiroaki Sawada
posted2023/08/13 11:00
ブラジルでインタビューに応じてくれたジョルジーニョ
「一家は困窮し、10歳の私も何とかして家計を助けようと思った。今なら児童労働として問題になるところだろうけど、朝4時半に起きて、学校へ行くまでの約2時間、アパートの共用部分を掃除して小銭を稼いだ。午後も、アパートの前のピッチの草を刈ってカターニャからお金をもらった。それから少年チームで練習したんだけど、この時間が唯一の楽しみだった。
カターニャは、『いずれ、プロクラブの関係者に紹介してやるからな』と言ってくれた。父親がいない私にとって、彼は父親のような存在だった」
恩人も父の死から3年後、自動車事故で
――素晴らしい人と出会えたのですね。
「ところが、父が死亡してから3年後、カターニャが自動車事故で亡くなった。悲しくて、涙が止まらなかった。13歳のとき、アメリカ(リオの中堅クラブ)のU-15の入団テストを受けて合格した。チームではCB、左右のサイドバックとしてプレーした」
――その後は順調だったのですか?
「U-17までレギュラーで、自分ではU-20に上がれると思っていた。
ただ、これは後に知ったんだけど、U-20の監督は私を『3つのポジションすべてで3番手以下』とみなしており、昇格させる気はなかった。ところが、この人が退任し、アメリカのかつての名MFエドゥー(ジーコの兄)が監督になった。彼が私を気に入ってくれ、そのお陰でU-20へ昇格できた」
――これが、その後、永い付き合いとなるエドゥーとの出会いですね。
「その通り。彼は、私がチームで一番背が低いのに『ジガンチ』と呼ばれているのを知って『ジガンチはないだろう』と笑い転げた。以来、私はファーストネームの『ジョルジ』をもじって『ジョルジーニョ』(小さいジョルジ)と呼ばれるようになった。
U-20では、少しずつ序列を上げてレギュラーになった。1982年、エドゥーがトップチームの監督に就任すると私も引き上げてくれ、試合で起用してくれた。彼は私の大恩人なんだ」
ジーコと最初に会ったときは体が震えたよ(笑)
――1983年、U-20代表に選ばれます。
「最終ラインのどこでもこなせるポリバレント性が評価されたのだろう。ボリビアで開催されたU-20南米選手権で優勝し、メキシコで行なわれたU-20W杯も制覇した。このとき、ドゥンガ、ベベット(後の1994年W杯の優勝メンバー)と一緒にプレーした」
――その翌年、フラメンゴへ移籍します。