「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
ヤクルト監督・若松勉に広岡達朗から突然の電話「監督は大変だよな」…“どれだけ嫌われても決して妥協しない人”広岡の知られざる素顔
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byJIJI PRESS/BUNGEISHUNJU
posted2023/07/13 17:31
2001年、優勝目前で足踏みしていたヤクルトの監督・若松勉(左)に電話をかけた広岡達朗。かつての指揮官はどんな助言を送ったのか
そして、若松は残念そうに、こうつけ加えた。
「……せっかくチームが強くなったのにもったいなかったなぁ。あのまま広岡さんがヤクルトに残っていたら、もっと強いチームになっていたと思うし、“まだまだ強くなるんだろうなぁ”って楽しみでした」
選手に布団をかけて回った三原脩監督
1974年から始まった広岡との共闘は、79年シーズン途中で幕を閉じた。改めて、若松にとって「広岡達朗とは何者か?」を尋ねる。その答えは、短いものだった。
「広岡さんは、“自分に厳しい監督”でしたね……」
続く言葉を待った。
「……僕自身、厳しい野球が好きでした。高校時代から、そのスタイルでやってきました。そして広岡さんは自分に対して厳しいし、他人に対しても厳しく、決して妥協をしない人でした。そしてそれは、プロでは初めての監督でした」
ここで若松は、プロ入り当時の三原脩監督との思い出話を披露する。
「僕が入団したときの三原監督は、ほとんどコーチ任せで、選手に対して何も注文をつけない監督でした。だから、バッティングはすべて中西太さんから教わりました。では、三原さんは何をしていたのかと言えば、選手たちのことをじっくりと観察していました。シーズン中の遠征先の宿舎で、今でも忘れられない出来事があるんです……」
遠征先の宿舎――。当時は現在のようなホテルでの個室ではなく、旅館の大広間でみんなで寝ていたという。ある晩のこと。みんなのいびきや寝息が響く中、若松はなかなか寝つけなかった。ふと、人の気配がする。目を凝らしてみると、それは三原だったという。
「……突然、監督が現れたものだから、寝たふりをしながら様子をうかがっていると、三原さんは選手一人一人に布団をかけて回っているんです。このとき、“監督というのは、ここまでやるものなのか?”と驚いたことを覚えています。それはまるで、父親が子どもたちを気にかけるような感じのものでした」
三原が「父性」で選手たちに接した一方、広岡は「規律」で選手たちを統率した。それぞれタイプは異なるけれど、若松にとって三原も、広岡も、「それぞれから多くのことを教わった」と振り返る。そして、この広岡の「厳しさ」は、後の若松の礎となった。