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J開幕、ドーハの悲劇、浦和レッズの低迷…濃密すぎる福田正博の1993年「ジーコの言葉は嬉しかったけど…」「申し訳ない気持ちでいっぱい」 

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飯尾篤史

飯尾篤史Atsushi Iio

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photograph byKazuaki Nishiyama

posted2023/04/24 11:01

J開幕、ドーハの悲劇、浦和レッズの低迷…濃密すぎる福田正博の1993年「ジーコの言葉は嬉しかったけど…」「申し訳ない気持ちでいっぱい」<Number Web> photograph by Kazuaki Nishiyama

Jリーグが開幕し、W杯出場をかけた戦いにも身を置いた福田正博。1993年は激動の時間だった。

 Jリーグの前哨戦として前年の92年に開催されたナビスコカップで5位となり、年末の天皇杯でベスト4に食い込んだレッズの前評判は、決して悪くなかった。

 ところが、ガンバとの開幕戦に敗れると、4連敗。福田が6月に肉離れを起こして離脱することになり、サントリーシリーズは18試合で3勝しかできなかった。

 低迷の原因は、どこにあったのか。

 エースの福田が代表活動のためにJリーグ開幕1週間前までチームに合流できなかったうえに、森孝慈監督の攻撃的な3-4-3のシステムがまったく機能しなかった。さらに、キャプテンの柱谷幸一に続いて福田まで負傷離脱することになったのも痛恨だったが、それ以前の問題もあった。

「もともと江戸川区をホームにしたかったんだけど、東京はダメだということになって、千葉の秋津に行こうとしたけど、あそこは住宅地だからダメだと。じゃあ、どこに行くのか。そうしたら、ホンダ(本田技研工業)がJリーグに参加しないことになって、埼玉が空いたからそこに行くと。ヴェルディ(川崎)や(横浜)マリノス、鹿島(アントラーズ)が着々と準備を進めるなかで、レッズは大きく出遅れていた。Jリーグが開幕したとき、練習場もなければ、寮もなかったから。ホテルを借りて寮として使って、練習場も転々としていた。車で着替えて、公園の水道を使って。そんな状態が半年くらい続いて、やっと大原のグラウンドができたんだよ」

 世間は空前のJリーグブームに沸いていた。テレビや雑誌の取材が福田のもとに殺到し、サインを求める行列ができるのは、練習場だけにとどまらなかった。

「急にスターダムに押し上げられて、パニックだよね。駅のホームでも、空港でも人が集まってきちゃって、異常な雰囲気だった。期待の大きさは伝わってくるけど、自分のコンディションは最悪で、思うようにプレーできないから期待に応えられない。そんなイライラに常に支配されていて、もがき苦しんだ1年だった。ストレスを溜め込んで、どうしたらいいのかも分からなくて」

「代表でプレーするのが心地よかった」

 もっとも、疲労とストレスを溜め込んでいたのは、福田だけではない。カズ(三浦知良)も、ラモス瑠偉も、井原正巳も、北澤豪も、森保一も、柱谷哲二も、代表選手みんなが疲れ切っていた。

 だから、日本代表のハンス・オフト監督がアメリカW杯アジア最終予選をひと月後に控えた9月にスペイン・カディスで組んだ合宿は、リフレッシュの意味合いが濃かった。

「ベティス、カディス、ヘレスとテストマッチを行ったんだけど、オフトは『とにかく休め』と言っていたね。それくらい、みんなヘトヘトだった。ただ、俺自身は代表でプレーするのがすごく心地よかった。レッズとは違って、自分の役割が明確だったから、プレーしやすかったんだろうね」

 レッズではエースストライカーを務める福田も、オフトジャパンではカズと高木琢也の2トップを支える、4-3-1-2のフォーメーションのトップ下を任されていた。

「カズが左サイドに流れて、トップ下の俺が右サイドから飛び出していくのがひとつの形だった。チャンスメーカーになってしまったのは不本意だけど、オフトは個性的な選手を組み合わせて攻守のバランスを取るのがうまかった。アンバランスの中のバランスというのかな。中盤の左サイドにはラモスさんがいて、それをアンカーの森保がカバーするというようにね」

【次ページ】 ジーコ「日本最高の選手は福田だ」

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