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「そんなもん、こっちが指名しちまえ!」ドラフト会場に響いた大沢親分の“喝” 松坂、菅野、長野…日本ハム「強行指名」信念の原点
text by
佐藤春佳Haruka Sato
photograph byJIJI PRESS
posted2022/11/19 17:09
「意中の球団以外は社会人入り」を表明していた横浜高時代の松坂大輔。それでも指名に踏み切った日本ハムの思いとは…
当時は携帯電話などなかった時代。山田氏は慌ててドラフト会場を飛び出し、公衆電話に走った。
「全く指名する準備をしていなかったので、まず学校に電話したんです。そうしたら、芝草は“3位までに呼ばれないから頭に来て帰っちゃいました”と。今度は家に電話をかけたら、お父さんが出ましてね、“うち、指名しちゃっていいですか?”、と聞くと、お父さんもやけくそだったのか、“指名しろ! 構わないから”って。急いで会場に戻って、6位で指名しました」
指名には成功したが、ここからが大変だった。巨人入りを夢見ていた芝草本人と、帝京高関係者の心は頑なだった。交渉は難航し、「入団拒否」の文字がちらつきだした。何とか説得できないものか。山田氏が向かったのは野球部のグラウンド、ではなく都内のサッカー場だ。強豪の帝京サッカー部が、高校選手権の予選を戦っていた。
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「芝草が見に来ているかもしれない、ってね。結局本人には会えませんでしたが、スタンドに来ていた校長先生の隣に座って一緒に応援しました。“私、こういうものです”なんて名乗ってね。そのことが気持ちを動かしたかは分からないですが、粘り強く説得して、何とか入団してくれたときは本当にホッとしました」
「やはり甲子園のスターは獲らないといけない」
日本ハム入団後、その芝草と、やはり甲子園のスターだったドラフト外入団の島田直也(常総学院)が「SSコンビ」として一躍人気を集めた。
「二人ともちょっと可愛らしかったから凄く人気が出て、多摩川の自主トレに2000人くらい集まってね。当時の日本ハムではありえないことでした。その時、やはり甲子園のスターは獲らないといけないな、と実感しました。そういう面でも思い出に残る指名選手でした」
後に斎藤佑樹や清宮幸太郎、吉田輝星など甲子園のスターを毎年のように指名した日本ハム。ドラフト戦略の原点は、こんなところにあったのだ。
1993年に「逆指名制度」が導入されると、日本ハムには更に逆風が吹いた。人気と金銭面で太刀打ちできなかったパ・リーグの各球団は、当初は逆指名の権利がなかった高校生の有望選手を獲得し、育成して戦力にする、というチーム戦略にシフト。そんな背景のなか、最も注目を集めた甲子園のスターが、1998年ドラフトの主役、松坂大輔だった。