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“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
「あの時、俊輔はいい指導者になると思った」桐光学園の恩師が明かす、高3中村俊輔が“体育の授業”で放った輝き「バスケもうまくてね」
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byJ.LEAGUE
posted2022/10/28 11:05
現役ラストマッチとなった熊本戦では、ベンチに退いてからも大きな声でチームメイトを鼓舞していた中村俊輔
日韓W杯でのメンバー落選は、中村のキャリアの中でもターニングポイントの1つである。当時日本代表の10番を背負っていたが、最終メンバーに中村の名前はなく、発表会見をテレビで眺めていた佐熊はそれを聞いた時に頭が真っ白になったという。
「(発表)直前の試合でもCKを直接入れていたし、親善試合も調子良かった。俊輔中心でやっていた感覚があったので、間違いなく入るだろうと教官室でワクワクしながらメンバー発表を見ていました。……発表が終わった直後はショックと怒りでいっぱいだった。『なんでだよ、あのトルシエの野郎』と憤慨していたぐらい(笑)。俊輔の気持ちを考えると当時は冷静になれなかったんです」
失意の記者会見を終えた中村は、その数日後に佐熊に電話をかけてきた。
「先生、明日、学校にお邪魔させていただきます」
どう迎え入れてあげればいいか分からなかった。しかし当日やってきた中村はいつもと変わらなかった。戸惑いながらも、「なんで俊輔が選ばれなかったのかが理解できない」と告げると、中村は笑顔を見せて「そういうのは監督が決めることなので、僕に力がなかっただけなんですよ」と返してきた。
佐熊は言葉に詰まった。
目の前にはベクトルを自分に向ける中村がいた。本人よりも自身の方が感情的になっていたことを深く恥じたのだった。
その落選からしばらくして、中村はセリエA・レッジーナへの移籍を決める。2人で焼肉を突きながら思いを聞かされ、最後は「イタリアで勝負してきます」と恩師の前で力強く宣言した。
「引きずってもおかしくない現実があったのに、あいつは次に向けてレベルアップをするために決断をして走り出していた。本当に凄い男だと思った」
早く指導者・中村俊輔を見たい
誰よりもサッカーが好きで、サッカー小僧。プロ生活26年を終えて、44歳となった教え子の決断に佐熊は何を思うのか。
「純粋に同じ指導者として、彼が指導しているチームを早く見てみたい。俺から伝えること? そんなのはないし、できないよ。今の僕の願いは、お互い同じ指導者として同じ目線で話がしたいね。彼の指導論や考え方を聞きながら、自分の考えも伝えて、議論したい。師匠と弟子ではなく、同じ指導者として。そうだね、同志として話したいね」
(つづく)
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