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“道しるべ”だった中村俊輔の引退にいま、中村憲剛が思うこと「たまらなく嬉しかったのは…」「俊さんとの対戦は憂鬱、なのに楽しい」

posted2022/10/27 11:04

 
“道しるべ”だった中村俊輔の引退にいま、中村憲剛が思うこと「たまらなく嬉しかったのは…」「俊さんとの対戦は憂鬱、なのに楽しい」<Number Web> photograph by AFLO

2014年8月23日、J1第21節でマッチアップする中村俊輔と中村憲剛。同試合は横浜F・マリノスが2-0で川崎フロンターレに勝利した

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中村憲剛+戸塚啓

中村憲剛+戸塚啓Kengo Nakamura + Kei Totsuka

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 率直な思いがあふれ出た。

 今シーズン限りでの引退を発表した中村俊輔さんについて、中村憲剛さんに語ってもらった。日本代表でチームメイトとしてプレーし、Jリーグではタイトルを争った。高いレベルでしのぎを削り、ポジションやプレースタイルに重なり合うところのあるふたりには、彼らだからこそ分かり合えるものがあったのだろう。

 ◆◆◆

同じ苗字ゆえの憧れ「はるか遠い存在でした」

 僕にとっての俊さんは、ずっと追いかけていた存在でした。

 最初にそのプレーを見たのは、俊さんが3年時の高校選手権です。「桐光学園の中村」と言えば、ユース代表でも活躍していた全国区の選手で、一方の僕は都立高校の1年生。立場はまったく違っていたけれど、苗字が同じというのは僕のなかで思いのほか大きくて。たぶんみなさんが考える以上に、大きなものでした。

 俊さんが横浜マリノスに入団してからも、プレーはよく見ていました。参考にするというよりも、ただただ「すげえなあ」と唸るばかりなのですが、苗字が同じということで一方的な親近感を抱いていて、なおかつ自分と同じように、身体能力で勝負するタイプではないので、ポジショニングやボールの持ち方、パスを出すタイミングなどはホントに見ていました。

 僕が中央大学を卒業してプロ入りした当時、俊さんはF・マリノスからセリエAのレッジーナへ移籍していました。自分もプロ選手になることはできたけれど、当時の川崎フロンターレはJ2で、俊さんは日本代表でも中心選手になっていて。はるか遠い存在でしたね。

 同じステージに初めて立つことができたのは、2007年3月でした。僕はイビチャ・オシムさんの監督就任とともに日本代表に選ばれるようになったのですが、06年夏のチーム結成当初は海外のクラブでプレーする選手は招集されていませんでした。この07年3月のタイミングで、俊さんとタカさん(高原直泰)が、初めて合流してきたのです。

 初対面は日本代表が投宿するホテルでした。フロアでばったり会ったのです。高校生の頃から追いかけてきた俊さんに、「中村くんだよね。フロンターレの試合、見ているよ」と言われて、「マジですか!」と興奮したのをいまでもはっきり覚えています。

【次ページ】 「オシムさんが上機嫌に」07年アジアカップの記憶

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