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原辰徳が明かした「私が監督なら大田を出さなかった」巨人ドラ1・浅野翔吾…じつに14年ぶりの当たりクジで思い出す“大田泰示の後悔”
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byJIJI PRESS
posted2022/10/27 17:03
10月20日のドラフト会議。阪神との競合の末、巨人が交渉権を獲得。野球部の仲間らに祝福されるドラ1・浅野翔吾外野手(高松商)
原監督の母校の後輩でもある大田は、高校通算65本塁打のスラッガー。身長188cmの大型ショートとして「神奈川のジーター」とまで称された大器だ。球団からの期待は凄まじく、いきなり松井秀喜の「背番号55」を託された。だが、結果的にこの過剰とも思える視線の数々が大田を苦しめることになる。当時はまだゴジラ松井の残像も強い55番を背負い、攻守に伸び悩み、心機一転3年目の11年には外野転向へ。翌12年にプロ初アーチを放つも、同年の巨人は独走リーグVと日本一に輝く戦力充実期。若く、発展途上の大田に付け込む隙はなかった。
「私が監督なら大田を出していなかった」
さらに大事な時期に故障離脱や自転車で転倒して負傷する悪循環。栄光の55番から背番号44へと変わるが、それでも第二次原政権ラストイヤーの15年には第81代4番打者も経験し、自身最多の138打席に立ち打率.277をマーク。しかし、わずか1本塁打と目の前の結果を求めるあまり、自らの長所でもある豪快で思い切りのいい打撃を見失っていた。そして、高橋由伸監督の1年目が終わった26歳の16年オフに日本ハムへトレード移籍。北の大地でのびのびとプレーした大田はレギュラーに定着し、1億円プレーヤーにまで登り詰めたのはご存じの通りだ。20年にはパ・リーグ外野部門のゴールデン・グラブ賞にも輝いた。
結果的にリーグ優勝9回と日本一3回を誇る、巨人史上最も通算勝利数を重ねた原監督をもってしても、自ら引き当てた後輩を育てきれなかった。それがやがてチーム内で、坂本勇人(88年生まれ)と岡本和真(96年生まれ)の間に“世代の断層”を生んでしまう。90年生まれの大田と同世代の橋本到や中井大介らも短期間活躍することはあっても、レギュラー定着はできなかった。第三次原政権は18年オフに世代的に坂本と岡本の間に位置する、当時広島の丸佳浩のFA獲得から始まったのだ。
その後、原監督がメディアのインタビューで「私が一度監督をやめて大田がトレードに出されていた。驚いたんですけど、私が監督なら出していなかった(HBCテレビ「今日ドキッ!」)」と発言したこともあった。恐らく、いまだに原辰徳には、「大田泰示を自身の手で育成できなかったことへの後悔」があるのではないだろうか。
原辰徳の「失われた10年」…なぜドラ1&2が外野手だった?
大田が巨人に入団した09年から現在まで、原監督は計11シーズン(09~15年、19~22年)指揮を執った。しかし、その間、主軸を担う強打の外野手を育てることはできていない。09年ドラフト1位外野手の長野久義は社会人経由の25歳というほぼ完成されてのプロ入りで、昨季限りで引退した亀井善行はタイプ的に貴重なバイプレーヤーというべき存在だった。なによりドラ1の大田も原監督の下を離れてから北海道で開花した。ようやく巡り会った将来的にトリプルスリーも期待される浅野翔吾という逸材は、その監督・原辰徳のいわば「失われた10年」を取り戻す重要なファクターにもなりえるだろう。