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中畑清「アイツは死んでもおかしくない…」長嶋茂雄監督が18人の巨人若手をシゴキ…“地獄の伊東キャンプ”伝説「猛ノックで泣いた」「カレーを吐いた」
posted2025/06/30 17:45

1979年、「地獄の伊東キャンプ」でシゴかれた中畑清
text by

永谷脩Osamu Nagatani
photograph by
BUNGEISHUNJU
1979年、長嶋茂雄監督は巨人若手18名をシゴいた。その合宿は、過酷すぎて「地獄の伊東キャンプ」として伝説になる。「アイツは死んでもおかしくなかった……」中畑清、角盈男らが証言した、約1カ月の「地獄」。その後の黄金時代へ続く長嶋監督による“猛練習”とは? 【全2回の前編/後編も公開中】《初出『Number』733号、2009年7月16日発売》
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「野球の地獄があろうとは…」
「人里はなれた多摩川に 野球の地獄があろうとは 夢にも知らないシャバの人 知らなきゃおいらが教えましょ」
歌のタイトルは『多摩川ブルース』。V9時代に“赤い手袋”で一世を風靡した切り込み隊長、柴田勲が当時の流行歌の替え歌として作ったもので、「野球の地獄」に耐える巨人軍の二軍選手の間で脈々と歌い継がれていった。
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柴田は当時をこう振り返る。
「雨が降っても平気で練習しましたね。ONが率先して練習に取り組むのだから、下の者が文句を言えるはずもない。巨人の伝統は猛練習の歴史なのかもしれません」
まだドラフト制度がなかった1960年代、巨人軍のユニホームに憧れて全国から集まって来た選手たちは、多摩川河川敷のグラウンドで汗を流し、泥にまみれていた。
「血反吐を吐くまで猛ノック」
寮暮らしをしていた王貞治は、当時の自分をこう回想する。
「練習が終わってクタクタになって、歩くのもいやだった。多摩堤通りを通るオート三輪に乗せてもらい、中原街道と接する丸子橋のたもとで降りて、対岸にある寮まで帰るのがやっとの毎日だった」
かつて巨人軍の強さは猛練習によって培われていた。生え抜きの選手を鍛え上げ、巨人の伝統を叩き込み、一人前に育てていく。その選手たちが戦う集団となったからこそ、数多の栄光も生まれたのだ。