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長嶋茂雄「今日の秋の空のように爽やか」あの巨人退任会見、本当のウラ側…読売新聞が警戒した“不買運動”、王貞治はポツリ「ミスターにふさわしいね」
posted2025/06/29 11:02

2001年09月28日、東京ドームホテルで退任の記者会見を行った長嶋茂雄
text by

永谷脩Osamu Nagatani
photograph by
JIJI PRESS
◆◆◆
長嶋監督退任の動きは、8月14日、渡辺恒雄オーナーが“長嶋くんが辞めるというまで、ウチの監督をやってもらう”と発言したあたりから活発になり始める。周囲が続投を示唆すればするほど、長嶋監督も微妙な動きを見せるようになってきた。ふだんは新横浜で降りる新幹線を東京駅まで乗り続けるようになったのは、名古屋での中日戦に敗れた後であった。オーナーに辞任の決意を伝えたのは、その前後ではなかったか。
第1次政権終了時には「読売新聞の不買運動」も…
次期監督候補が続々と挙がってくる中で、監督自らが強力に推したのが原辰徳であった。その理由は単純で、“自分の下で3年間、監督の修業をしてくれたから”というものであった。候補に挙がっていた堀内恒夫、江川卓では、今までやってきた長嶋野球が否定されることになる。それを避けるためには、どうしても自分と苦労をした原擁立をする必要があった。
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長嶋監督は80年に解任劇の主役となった。当時、江川卓が“Aクラスになれば監督は大丈夫と言われたからがんばった。あんなに必死になって投げたことはない”と言ったほど、チーム一丸でのAクラス死守だった。だが、チームの奮闘もむなしく長嶋監督は解任、それもファンの前での挨拶もないままだった。その結果、読売新聞の不買運動が起こり、部数は激減した。親会社、球団側は、そんな苦い経験をしているだけに、きれいな形で退任させ、監督が推す人物が次期監督になる、という形をどうしても取りたかった。だから、長嶋監督の退任に際して、ある程度の譲歩ができた。結果、長嶋監督は気持ちよくユニフォームを脱ぐことができたのだ。
「組織としての活性化を図るためには、若返りがどうしても必要なのです」
長嶋監督のこの発言は、とりようによっては、自分と同世代の人間たちが、巨人のユニフォームを着て戻ってくることを否定しているようにも受け止められるのだ。