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熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
「貧民街育ちで銃撃戦が日常」「酒乱で恋人を木に縛りつけ」皇帝アドリアーノの“実は親思い秘話”… 引退後40歳の今、何してる?
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byNaoya Sanuki
posted2022/07/18 17:00
2005年コンフェデ杯のアドリアーノ。稀代の問題児は40歳になった今、どうなっている?
9歳のとき、地元の名門フラメンゴのアカデミーの入団テストを受けて合格。両親は厳しい家計の中から交通費を捻り出してくれ、祖母に付き添われ、バスを乗り継いで練習場へ通った。
左SBだったアドリアーノがパルマで中田英寿とともに……
当時は小柄で痩せており、左SBの控え選手。辛うじてU-17へ昇格し、CFへコンバートされてから、点取り屋としての才能を発揮し始めた。
チームのエースストライカーとなり、ブラジルU-17代表にも選ばれた。2000年2月に17歳でトップチームからデビューし、国内リーグで19試合に出場して7得点。この年11月、18歳でブラジル代表に初招集された。
2001年8月、移籍金1319万ユーロ(約18億円)でイタリアの名門インテルへ。しかし、出場機会が少なく、半年間、フィオレンティーナへ貸し出された後、2002年7月、移籍金1450万ユーロ(約20億円)でパルマへ移った。
この移籍が、大きな転機となった。チェーザレ・プランデッリ監督から、ストライカーとしての基本を叩き込まれて覚醒したのである。チームメイトだった日本代表MF中田英寿からもアシストを受け、ゴールを量産する。
インテルは彼の急成長に驚き、2004年1月、1年半前に受け取った移籍金をはるかに上回る2340万ユーロ(約33億円)を払って彼を買い戻した。今度はレギュラーとなり、シーズン後半、16試合に出場して9得点。地元メディアとサポーターは豪快なゴールの数々に驚愕し、「インペラトーレ」(皇帝)の尊称を与えた。
ポルトガル語の「アドリアーノ」は、イタリア語では「ハドリアヌス」。イタリア人たちは、117年から138年まで古代ローマを統治した賢帝ハドリアヌスを連想したのである。
コパ・アメリカ優勝9日後の悲劇
ブラジル代表でも、凄まじいパワーを遺憾なく発揮した。2004年7月にペルーで開催されたコパ・アメリカ(南米選手権)のグループステージ(GS)コスタリカ戦でハットトリックを記録すると、準々決勝メキシコ戦で2得点、準決勝ウルグアイ戦でも1得点を挙げた。
7月25日に行なわれた決勝アルゼンチン戦では、1−2で敗色濃厚だった後半アディショナルタイムに奇跡のようなゴールを決めた。
右サイドからのアーリークロスがゴール前へ入り、ゴールを背にした状態でこぼれ球を受けると、左足で浮かせながら振り向きざまに左足で強烈なシュート。宿敵のGKは、呆然と見送った。
土壇場で追いついたブラジルは、PK戦を制して優勝。アドリアーノは7ゴールで得点王に輝き、大会MVPにも選ばれた。
自宅のテレビで近所の人々と共に息子の晴れ姿を見た両親は、誰彼となく抱き合い、涙を流して喜んだ。
ところが、それからわずか9日後、悲劇が起きる。