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「ヒデはきっと素直な気持ちを口にしただけで」担当スカウトが知る高卒ルーキー中田英寿の素顔〈メディアとの衝突、岡田武史の誤解〉
text by
杉園昌之Masayuki Sugizono
photograph byNaoya Sanuki/JMPA
posted2022/07/19 17:00
瞬く間に階段を駆け上がっていった中田英寿。獲得レースを制したベルマーレ平塚の元スカウトがルーキー時代の秘話を明かした
当時、日本代表監督を務めていた加茂周氏が加わり、あとから代表コーチの岡田武史氏も合流。森はフジタ工業の現役時代に古河電工の岡田と対戦して面識があったこともあり、おもむろに話しかけられた。
「『中田は面白いと思うけど、日本代表は本気で代表ユニホームを着たいと思う選手しか選べないんだよ』と。どこかでヒデの『必要とされれば、代表に行ってもいい』という趣旨のコメントを目にしたようです。ヒデはきっと素直な気持ちを口にしただけで、A代表に行きたくないとは話していません。だから、私は言いました。『不思議に思うことがあるかもしれませんが、本人と話せば分かります。まずは呼んでみてください。それでダメなら仕方ないですが、きっと役に立ちます』って」
その後、森は岡田とコンタクトを取ったことはなく、中田がどのような経緯でA代表に招集されたのかを知る由もない。97年5月の日韓戦でA代表デビューを飾り、同年11月に初のワールドカップ出場権獲得に大きく貢献。98年フランス・ワールドカップでは、コーチから昇格した岡田監督が率いる代表チームの主力として活躍した。森は青いユニホームで躍動する中田の姿を誇らしい思いで遠くから眺めていた。
いまだに「中田の衝撃」を超えられない
中田とともに過ごした3年半はあっという間に過ぎた。98年夏、平塚を卒業し、当時ヨーロッパの最高峰と言われたイタリア・セリエAのペルージャへ。土手のグラウンドで練習する小さなクラブから世界に送り出せたことは、ベルマーレの一員として誇りに思えた。
あれから24年。長年、現場で目を凝らしてタレントたちをチェックしているが、いまだ最初の衝撃を超える逸材に出会ったことはない。それでも、中田自身が描いたサクセスストーリーの一部に関わった経験は、いまもスカウトの仕事に生きているという。
「僕の勝手な解釈ですが、大きな目標を設定した上で逆算してキャリアを歩んで行ったように思います。平塚から始まり、ペルージャ、そしてローマでスクデット(セリエA優勝)を獲得。甲府のスカウトとして、いまの選手たちにも時々ヒデのことを話すんです。自分が試合に出られるクラブで名前を売って、ステップアップして行けばいいと。若い選手にはJリーグで試合に出て、いい車に乗るくらいで満足してほしくない。サッカー選手たるや野心を持つことは大事だし、それを止めることはしないからって」
平塚から旅立ち、スターからレジェンドとなり、29歳で引退してサッカー界から離れても、森スカウトの中ではぎらぎらした目の中田が鮮明な記憶として残り続けている。
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