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ハンガリー代表を世界最強に。イングランドでは裏切り者と言われた改革者「ジミー・ホーガン」とは?
text by
ロベルト・ノタリアニRoberto Notarianni
photograph byAstonVillaArchives
posted2020/09/07 07:00
フレデリック・リンデル(左)は、ジミー・ホーガンを信頼した唯一のイギリス人指導者の1人だ。
ホーガンが指摘していた「イングランドの限界」
次に彼が活躍の舞台を求めたのはスイスだった。ヤングボーイズ・ベルンやローザンヌ・スポールの監督を務めながらスイス代表監督も兼任。さらにその後はオーストリア(オーストリア・ウィーン)やハンガリー(MTK)ばかりかドイツ(ドレスデンSC)、フランス(ラシン・パリ)でも指揮を執り、ヨーロッパ大陸を縦横無尽に動き回った。この間、ハンガリーでは、彼の蒔いた種を後に結実させるグスタボ・セベシュとの知己を得て、オーストリアではフーゴ・マイスルとともに同国代表を《ブンダーチーム》(=当時のオーストリア代表の愛称。ヨーロッパ最強チームのひとつと見なされていた)に育てあげた。1936年ベルリン五輪に、マイスルはホーガンをテクニカルディレクターとして帯同させた。ふたりが構築したチームは、決勝でイタリアに敗れたものの銀メダルに輝いたのだった。さらにドイツでも、ホーガンは「モダンサッカーの創始者のひとり」と見なされている。ドレスデン時代の教え子だったヘルムート・シェーン(1974年西ドイツワールドカップ優勝監督)は、オランダとの決勝の後に、半年前に91歳で亡くなったホーガンへの感謝の言葉を贈っている。
だが、当時(第2次世界大戦前)のイングランドで、ホーガンはあくまでも不遇だった。そしてホーガン自身は、ロングボールを主体に空中戦を挑むイングランド伝統のスタイルに限界を感じていた。
「選手の質では今もわれわれは最高だ。だが、プレースタイルが彼らの良さを発揮させない」と彼は語っている。
半世紀を経て、高く評価される革新的な戦術。
サッカーの母国のプライドは、伝統的なスタイルへの固執と同義だった。WMシステムの創始者で、類まれな変革者でもあったハーバート・チャップマン(アーセナル)が1934年に肺炎のため55歳の若さで逝去してからは、その傾向が一段と強まっていた。ホーガンも多くの機会は得られず、フルアムとブレントフォードで短期間チームを率いた他はアストンビラでチャンスを得たが、戦争(第2次世界大戦)の勃発により結果を得る前に仕事を終えざるを得なかった。
だが、アストンビラ時代にホーガンの教えを受け、後にマンチェスターユナイテッドやアトレチコ・マドリー、アストンビラの監督を歴任したロイ・アチキンソンは、ホーガンをこう評している。
「彼のメソッドは革命的で、われわれはボールを常に足元に置いてプレーした。それは当時のイングランドでは、それまで誰も見たことのないプレーだった」
そしてそのプレーこそは、ホーガンのアイディアを受け継いだ《マジック・マジャール》の精鋭たちが、1953年にウェンブレーで実践したことであった。それから半世紀以上がたった今、ホーガンはイングランドでも正当に評価されている。