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ハンガリー代表を世界最強に。イングランドでは裏切り者と言われた改革者「ジミー・ホーガン」とは?
text by
ロベルト・ノタリアニRoberto Notarianni
photograph byAstonVillaArchives
posted2020/09/07 07:00
フレデリック・リンデル(左)は、ジミー・ホーガンを信頼した唯一のイギリス人指導者の1人だ。
戦争で投獄も…… 救い出したのはMTKブダペストだった。
1882年10月16日、マンチェスターの北40㎞の小さな街ネルソンに生まれたホーガンは、20世紀に入り地元のクラブを皮切りにロッチテール、バーンリー、フルアム、スウィンドン・タウン、ボルトン・ワンダラーズなどでプレーを重ねた。ポジションはインサイドフォワード。テクニックに優れ、プレーのメカニズムの探究に熱心で見知らぬ国への好奇心も旺盛だった。そうであるからボルトンがオランダ遠征を敢行した際に、ホーガンはドルドレヒトのクラブ首脳に自らを売り込み、1911年まで同クラブの監督を務めた。また、この間、1試合だけオランダ代表監督も務め、親善試合でドイツを2対1と下した(1910年10月)のだった。
1913年にボルトンで現役を引退するまでホーガンは、選手と監督の二足の草鞋を履きながら、ヨーロッパ大陸とイングランドを行き来した。1911年からはオーストリアでアマトゥーレSV(後のオーストリア・ウィーン)の監督に就任、しばらく後にはフーゴ・マイスル(オーストラリア代表監督)に乞われ、ストックホルム五輪に向けて準備中の同国代表のアシスタントコーチも兼任した。これが転機だった。ホーガンは自らのノウハウ伝授に飢えていた。だが、歴史が彼に暗い影を落とした。1914年に第1次世界大戦が勃発し、オーストリア=ハンガリー帝国はイギリスと交戦状態に入ったために、英国人であるホーガンは投獄され、妻と息子は本国に送還されたが彼自身は収容所に送られた。
危機を救ったのがMTKブダペストだった。監督就任を要請し収容所から救い出したのは、同時にハンガリーにとっても幸運だった。このとき彼が種をまき育てた新しい芽は、やがて《アラニーサパト=マジャール語でゴールデンチームの意》として大輪の花を咲かせ、ウェンブレーでの歴史的勝利へと繋がっていったのだから。
それが可能だったのは、ホーガンはイノベーターとしてのアイディアに溢れていたからだった。実践したのはショートパスを主体とし、選手が流動的に動きながら攻撃を構築していく想像力に溢れたプレースタイルだった。ハンガリー王者に2度輝いたMTKは、中部ヨーロッパにおいて屹立した存在となった。
その実績を手土産に、大戦終結前にホーガンはイングランドに帰国するが、それは凱旋からは程遠かった。協会(FA)に出向いても、セクレタリーのフレデリック・ウォールに冷たく門前払いをくらったばかりか、敵国で働いた《裏切り者》の烙印を押されてしまったのだった。失意を胸に、彼はブダペストへと戻っていった。