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ハンガリー代表を世界最強に。イングランドでは裏切り者と言われた改革者「ジミー・ホーガン」とは?
posted2020/09/07 07:00
text by
ロベルト・ノタリアニRoberto Notarianni
photograph by
AstonVillaArchives
『フランス・フットボール誌』の短期連載「自由な精神」の第2回(6月30日発売号掲載)はジミー・ホーガンである。恐らく読者の皆さんは、ホーガンをほとんど知らないのではあるまいか。筆者(田村)もロベルト・ノタリアニ記者の原稿を読むまで、詳しい経歴は何も知らなかった。
ただし、皆さんも《マジック・マジャール》という言葉は聞いたことがあるだろう。トータルフットボールが出現する以前は世界サッカー史上最強チームといわれ、今日でも最強チームのひとつに数えあげられる1950年代のハンガリー代表がマジック・マジャールであった。
1956年のハンガリー動乱でチームが突然瓦解するまで、足かけ6年にわたり負けたのは2度のみ。積み上げた勝利の中には、ヘルシンキ五輪(1952年)金メダルやウェンブレーでの勝利(スコットランド以外のチームがウェンブレーでイングランドを破ったはじめての勝利)を含むイングランド戦2連勝(ウェンブレーで6対3、ネップスタジアムで7対1)などがあった。その圧倒的な攻撃力と流動的なスタイル、そして選手の育成システムは、世界最強チームの構築システムをハンガリーが確立したとまで当時言われたのだった。1950年6月にポーランド戦に敗れて以来最初の敗北が、ハンガリーにとって最も重要であった試合――西ドイツとの1954年スイスワールドカップ決勝であったのは、歴史の皮肉としか言いようがない。
ハンガリーをはじめ、ヨーロッパ大陸で大きな功績をあげながら、本国のイングランドでホーガンはまったく評価されなかった。ひとつには、彼が打ち立てたパスを繋ぐ革新的なプレースタイルが、イングランドで受け入れられなかったというのはある。だが、そればかりか、敵国のために仕事をした裏切り者のレッテルをホーガンは貼られた。彼の卓越したアイディア、彼の国境を越えた行動は、サッカーの母国のプライドを固辞し、伝統的な価値観に何の疑いも抱かない英国の人々の思考の範疇を大きく超えていたのだった。
ノタリアニ記者が書き記すのは、古き良き時代に決して《古き良き》境遇を甘受できなかったひとりの改革者の軌跡である。
監修:田村修一
イングランド相手に歴史的勝利を成し遂げたハンガリー。
祖国イングランドでは理解を得られなかった革新的な指導者は、自らのアイディアを普及させるために海外に活路を求めざるを得なかった。彼を受け入れたのはオーストリアと、とりわけハンガリーの偉大なチームだった。
1953年11月25日、ロンドン・ウェンブレースタジアム。詰めかけた大観衆はわが目を疑わざるを得なかった。ホームでは無敗を信じてやまなかったイングランド代表が、ハンガリー代表から強烈なレッスンを受けたのだから。
サッカーの母国であるイングランドは、長きにわたり世界最強チームと見なされていた。1930年にウルグアイで第1回が開催されたワールドカップは、栄誉ある孤立を維持して不参加。初めて参加した第4回大会(1950年、ブラジル)は、アメリカに敗れてグループリーグで敗退したものの、それは世紀の大番狂わせ=アクシデントと見なされた。