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俊輔落選、中山・秋田選出から18年。
W杯の“ベテラン枠”論争に決着を。
text by
戸塚啓Kei Totsuka
photograph byAFLO
posted2020/05/17 11:50
W杯で初めてゴールを決めた日本人である中山雅史は、2002年日韓W杯にサプライズ招集されチームに魂を吹き込んだのだ。
名波や俊輔が背負ってきた10番を。
中山は背番号10を着けることになった。名波浩や中村俊輔が背負ってきた番号である。
名波は2001年に右ひざを2度手術し、4月に復帰したばかりだった。W杯出場は難しいと言われていたが、中村は直前までアピールを続けていた。
このため、中山の選出と中村の落選を結び付ける見方があったが、中村は左アウトサイドの競争で構想外となっている。小野伸二、服部年宏、三都主アレサンドロとの比較によるものだ。
中山の選出に影響を及ぼしたのは、高原直泰のエコノミークラス症候群発症だっただろう。鈴木隆行、西澤明訓、柳沢敦とともに信頼を寄せる彼が万全だったら、トルシエは中山を選んだだろうか。
いずれにしても、トルシエが2002年5月17日に下した判断は、4年後にクローズアップされることとなる。
ジーコは「試合に出ない選手」を選ばず。
ジーコがドイツW杯へ連れていったチームは、選ばれるべき選手の集団だった。誰がスタメンでもクオリティの変わらないチームを作ることができた。川口能活、楢崎正剛、中田英寿、小野は3大会連続で、稲本潤一、宮本恒靖、柳沢、三都主、福西崇史、中田浩二、小笠原満男は2大会連続である。
それでいて、高齢化したチームではない。フランスやブラジルと公式戦でスリリングなゲームを展開するなど、国際的な経験も積んでいた。
ところが、「ベスト4だって狙える」とジーコが語ったチームは、グループステージ敗退に終わってしまう。2002年のベスト16入りを後押しした中山と秋田のような存在が、トルシエが言うところの「試合には出ない」選手がいなかったのだ。
最年長は第3GKの土肥洋一で、フィールドプレーヤーはすべて20代だった。フィールドプレーヤーに30代の選手がひとりもいなかったのは、出場32カ国で日本だけだった。