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MotoGP史に今も輝く加藤大治郎。
ロッシをも恐れさせた永遠の天才。
posted2020/04/27 18:00
text by
遠藤智Satoshi Endo
photograph by
Satoshi Endo
2003年4月6日、鈴鹿サーキットで行われたロードレース世界選手権・第1戦日本GPの決勝レースで、優勝候補のひとりだった加藤大治郎がスタートから3周目、最終コーナーの入口で激しく転倒した。医務室に運ばれたが危篤状態となり三重県立総合医療センターにヘリコプターで緊急搬送された。しかし、2週間後の4月20日、収容先の病院で亡くなった。
あれから17年の歳月が過ぎた。
時間の経つのは本当に速いが、17年が経ったいまも、彼を超える日本人選手は出てこない。世界を見渡しても、当時の彼と戦えるライダーは、数えるほどしかいない。まさに、日本が生んだ「ナンバー1ライダー」だった。
以下の引用文は、彼が亡くなったときに僕がナンバーに書いた記事である。始めて加藤大治郎の記事を読む読者には大変申し訳ないのだが……その冒頭部分をぜひ読んでもらいたいと思う。
「加藤大治郎よ、永遠に(https://number.bunshun.jp/articles/-/13361)」(2003年5月8日)
~~~~ 以下、記事冒頭からの引用 ~~~~
誰もが彼のことを“大ちゃん”と呼んだ。もしかすると僕も、初めて話したときからそうだったかもしれない。
「大ちゃんという速い子がいる。あの子は世界チャンピオンになるよ」
彼の走りを見た人はみんな、そう言った。埼玉県荒川土手の小さなコースで才能に磨きをかけていた少年の名前が、レース関係者の間でささやかれるようになるのに、そう時間はかからなかった。
小さな頃から神童、そんな逸話はいくらもあるが、大ちゃんの世界制覇は、この頃からすでに折り紙つきだった。少年時代から、ともにレースを戦ってきたノリック(阿部典史)の父・光雄さんは、
「昔から大ちゃんは天才的な走りをしていた。絶対に世界チャンピオンになる」
と言っていた。当時のWGP250ccクラス王者の原田哲也をして「大治郎はすごいやつ」と言わしめたのは、まだ大ちゃんが全日本にデビューしたばかりの頃の話だ。
そんな周囲の期待に大ちゃんは次々と応えていく。大舞台には滅法強く、次々にタイトルを制覇。それでいて誰にでも愛される“いいやつ”とあれば、スーパースターにならない訳がなかった。
~~~~ 以上、引用終わり ~~~~