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笑顔、闘志、凍える記者にカイロ。
上村愛子がモーグル第一人者の理由。

posted2020/04/26 11:40

 
笑顔、闘志、凍える記者にカイロ。上村愛子がモーグル第一人者の理由。<Number Web> photograph by Shino Seki

2014年3月27日、現役最後の試合となった全日本選手権の試合後、後輩達から胴上げをされる上村。

text by

松原孝臣

松原孝臣Takaomi Matsubara

PROFILE

photograph by

Shino Seki

『Sports Graphic Number』創刊1000号を記念して、NumberWebでも「私にとっての1番」企画を掲載します。今回は長野五輪から5大会連続で五輪に出場し、その実力と笑顔でモーグルという競技を一躍有名にした上村愛子選手についてです。

 これまで約四半世紀にわたって、スポーツ、そしてアスリートの取材を続けてきた。

 その中に、忘れがたいアスリートがたくさんいる。

 上村愛子も、その1人だ。

 フリースタイルスキー・モーグルを牽引してきた第一人者である。

 実績は数知れない。

 2007-08シーズンのワールドカップでは日本選手初の総合優勝を果たし、2008-09シーズンの世界選手権ではこちらも日本選手初の2冠を達成。

 オリンピックは初出場となった1998年の長野大会を皮切りに、2014年のソチまで5大会連続出場。しかも、長野の7位から、6、5、4、4位とすべて入賞を果たしている。

 これら成績の一端だけ見ても、どれだけ長きにわたり、世界の上位を争う位置にいたかを知ることができる。そして上村の存在があって、モーグルという競技の認知度も高まった。それも功績の1つだ。

二重の期待のもとで挑んだ大会。

 そうした長年の経歴を見れば、「不屈の闘志」という言葉も浮かんでくる。それもまた、上村の一面を指し示しているだろう。ただ、そこにあてはまらない面も見せてきた。

「地元の大会だから、とにかく出たかったです」

 長野県白馬村でスキーに励んでいて、ただただ「地元で行われるオリンピックに出たい」という一心だった長野大会のあと、上村は、周囲の期待、そして自身による自分への期待とともに、オリンピックでのメダル獲得を目指し、進んでいった。

 2002年のソルトレイクシティも、2006年のトリノも、2010年のバンクーバーも、そうした二重の期待のもとで挑んだ大会だった。

【次ページ】 「私はなんで一段一段なんだろう」

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上村愛子

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