プロ野球亭日乗BACK NUMBER
関根潤三、長嶋茂雄への熱い思い。
ヤクルトでも監督を譲りたかった。
text by
鷲田康Yasushi Washida
photograph byKYODO
posted2020/04/10 12:00
1986年10月、ヤクルト監督就任の記者会見をする関根潤三さん。ヤクルトでも“ミスタープロ野球”に監督の座を譲りたい気持ちがあったという。
自分の代わりに長嶋さんをヤクルトの監督に。
しかしそれから数日後に長嶋さんから断りの連絡が入り、この話は幻と消えた。
関根さんも大洋との3年契約を終えた'84年限りで退任するのだが、実はこの長嶋招聘には後日談があったのだと深澤さんは言う。
関根さんは3年後の'87年に今度はヤクルトの監督に就任するが、その年のオフのドラフトで長嶋さんの長男で立教大学4年生だった一茂を1位指名したのである。
「実はこのときヤクルトの相馬和夫社長が一茂の獲得に熱心だったんですけど、関根さんが『ちょっと待ってください』と言い出したんですね。
理由を聞いたら『一茂くんを獲ったら、お父さんの長嶋くんが親子で同じ球団に所属することを嫌がらないか?』と言うんです。
要は関根さんの頭には、自分の代わりに長嶋さんを今度はヤクルトの監督にという思いがあったんですね」
「メジャーでは親子でコーチと選手なんて話はよくある」
そこで日本シリーズの初戦が雨天中止になった10月24日に京王プラザホテルで関根さんと長嶋さんが会うことになった。
「その席で関根さんは一茂くんを1位指名したいということを伝えるとともに、もしヤクルトが長嶋さんを監督に呼ぼうとしたときに、親子が同一球団に所属することが障害にはならないか、と聞いたんですね。
すると長嶋さんは『メジャーでは親子でコーチと選手なんて話はよくある。全く問題ありませんよ』と。それでヤクルトは一茂くんを1位で指名することになったわけです」
ただ、関根さんがいくら望んでも、あのときの大洋のような熱は、ヤクルトには無かった。一部の球団幹部の反対もあり、ヤクルト・長嶋監督は自然消滅のような形でたち消えになってしまい、'89年に関根さんもユニフォームを脱いだ。