プロ野球亭日乗BACK NUMBER
関根潤三、長嶋茂雄への熱い思い。
ヤクルトでも監督を譲りたかった。
text by
鷲田康Yasushi Washida
photograph byKYODO
posted2020/04/10 12:00
1986年10月、ヤクルト監督就任の記者会見をする関根潤三さん。ヤクルトでも“ミスタープロ野球”に監督の座を譲りたい気持ちがあったという。
球界を揺るがす大事件の伏線。
関根さんと長嶋さんのマンツーマンの素振りはこの年何度か行われ、これが縁で2人の仲が急接近する。
そうして現役を引退した長嶋さんが、翌年に巨人の監督に就任すると、関根さんはヘッドコーチとして招聘されたのである。
第1次長嶋政権は1年目に最下位に沈み、フロント主導の人事でその責任をとる形で関根さんは一軍を離れ二軍監督となる。
そして翌年には巨人のユニフォームを脱いだが、この退団の仕方が後に球界を揺るがす大事件の伏線となったのである。
“大洋・長嶋監督”は実現寸前だった。
巨人を退団してから5年後の1981年オフに関根さんは大洋の監督に就任した。
実はこの前年の'80年限りで長嶋さんは監督を退任し、いわゆる浪人生活に入っていた。
しかし退任して改めて長嶋人気に火がついたことで、他球団が盛んに長嶋さんを監督に招聘する動きを見せていた。中でも一番熱心だったのが、大洋だったのである。
「当時の大洋漁業の重役で、後にホエールズの球団社長になった久野修慈さんが『長嶋さんと関根さんを獲りたい』と言って、水面下で交渉を進めて、まず関根さんを監督に据えた。
関根さんも監督になったときから『僕は長嶋くんが大洋に来てくれるなら、いつでも監督を譲りますよ』と言って長嶋監督誕生を待っていたんですね」
実際に“大洋・長嶋監督”は実現寸前のところまで漕ぎ着けていたという。
「長嶋さんも乗り気になって、関根さんも監督を譲るための準備に入った。関根さんと関根さんの恩師の藤田省三さん(元法大、近鉄監督)と私の3人で、記者会見の準備までしていたんです。
関根さんは現役監督でありながら長嶋さんにラブコールを送り続けていたので『こんな形で監督を交代するのはファンに失礼ではないか』という質問が飛ぶかもしれない。そうしたらどう答えるのかとか、会見の想定問答までしていました」