ツバメの観察日記BACK NUMBER
あの3年間のヤクルトは楽しかった。
関根潤三が池山、一茂に教えたこと。
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byKYODO
posted2020/04/09 21:15
大洋とヤクルトで監督を務めた関根氏。現役時代は投手で通算65勝、打者として通算1137本のヒットを打った“二刀流”だった。
監督が選手を育てるなんておこがましい。
池山隆寛、広沢克己(現・広澤克実)の「イケトラコンビ」は三振も多かったけれども、「三振かホームランか」というスラッガーの醍醐味を十分に味わうことができた。
ボブ・ホーナー、ダグ・デシンセイ、ラリー・パリッシュ……関根さん時代の助っ人はみんな個性的だった。関根さんの「池山話」はまだまだ続いている。
「よく、僕が“池山や広沢を育てた”って言われるでしょ? 冗談じゃないよ、監督が選手を育てるなんておこがましいこと言っちゃいけない。
池山も広沢も、あいつらが勝手に育ったの。オレが情けなく、頼りにならないから、あいつらが頑張ってくれただけ。本当にいい選手に恵まれただけなんだから」
関根さんの言葉は1つひとつが温かく、そして優しかった――。
大谷翔平よりも半世紀早い「元祖二刀流」。
法政大学卒業後、関根さんは近鉄パールスに入団。1951年、'53年には開幕投手を務めたこともある。
その一方で後に打者に転向し、クリーンナップとして活躍。大谷翔平よりも半世紀早い「元祖二刀流」だった。関根さんは投手、野手の両方でオールスターゲームに出場したことでも知られている。
現役引退後は解説者を経て、'75年には長嶋茂雄監督の要請で巨人のヘッドコーチを任された。また、'82年から大洋ホエールズの監督を務めたこともある。
長年の功績が認められて野球殿堂入りしたのは2003年のことだった。間違いなく球界のレジェンドなのに、インタビュー中、関根さんは終始低姿勢で受け答えをしていた。