One story of the fieldBACK NUMBER
福留孝介の決断1つ1つに敬意を。
2000本の陰に何を捨ててきたのか。
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byNaoya Sanuki
posted2016/06/27 17:00
チーム最多安打、規定打席をクリアしている中でのチーム最高打率。福留孝介の決断の日々は、今も続いている。
7球団1位指名、近鉄の交渉権獲得、それでも社会人へ。
良くも悪くも、本土最南端の限られた世界だ。畏怖が嫉妬になり、憎悪を呼ぶ。まだ見ぬ世界へ翔ぼうとする、その足に大人の感情が絡みつく。ただ、それを脇目に、福留少年はまっすぐ両親を見て、告げたという。
「PLに入っても3年間、レギュラーになれないかもしれない。でも、僕はいずれプロに行く。あそこ(PL)に行けば、誰かが見てくれている可能性があるんだ」
16になる春、故郷のしがらみを海峡の白波に捨てていった。
PL学園で清原以来となる1年生4番を張り、甲子園でも“怪物”と呼ばれた男は3年後、ドラフト会議で高校生史上最多となる7球団から1位指名を受けた。その直前、中村順司監督(当時)に問われていた。意中の球団以外が交渉権を獲得したら、どうするのか? 福留はこの時もすでに答えを持っていたという。
「そうなったら、プロには行きません」
選択肢は中日、巨人のみ。果たして、ドラフト当日、近鉄・佐々木恭介監督(当時)の「ヨッシャー!」という雄叫びも、福留の心を揺るがすことはなかった。“10年に1人の逸材”は社会人・日本生命へ。
「社会人に3年間、行くことでサビついてしまうんじゃないか」
「わざわざ、遠回りするのは危険ではないか」
親身な声も、やっかみもあった。だが、この時も福留は大阪・富田林のグラウンドにそれらを捨てていった。
決して忘れなかった、中日の優しさと小さな恩。
さらに12年の後、逆指名で入団し、一時代を築いた中日ドラゴンズを離れ、太平洋を渡った。情がないのではない。そもそも、中日を選んだのは遠く中学時代に触れた優しさを覚えていたからだ。
「君、いつも来ているよね?」
連日宮崎キャンプを見に行っていた福留少年に、1人のスタッフがボールを差し出してくれた。その後、甲子園の“怪物”になっていく過程で、球団やスカウトの熱意と共に、その小さな恩を忘れなかった。