マスクの窓から野球を見ればBACK NUMBER
華やかなドラフトの陰で流れる“涙”。
無指名、意中外、育成枠の男たち。
text by
安倍昌彦Masahiko Abe
photograph byHideki Sugiyama
posted2014/11/08 10:50
日本シリーズ優勝に貢献したソフトバンクの攝津正も、ドラフトで涙を呑んだ選手の1人。ドラフトが選手の価値を決めてしまうわけではないのだ。
翌年も素晴らしい投球を続け、プロ入りを果たした攝津。
しかし、そこからの立ち直りが、攝津投手はすばらしかった。
さらにその後の2年間、JR東日本東北のエースとして、さらに全日本の一員としてもコンスタントな投球を続け、2008年のドラフトで念願の指名を勝ち取り、プロ野球・ソフトバンクに進むことになる。
社会人野球では130km後半がアベレージだったスピードが、プロで中継ぎに転向するや、一気に140km後半にパワーアップ。
社会人ではいつも先発・完投だったから、ペース配分を考えると130km後半がやっとだったと種明かししてくれたことも、強く印象に残っている。
ドラフトに翻弄された古田敦也、稲葉篤紀。
人が人を選ぶ。
事前に何度もシミュレーションをして指名選手の人選を行なうドラフトにも、間際のどんでん返しはつきもので、それで泣いてきた選手たちも数知れない。
たとえば1987年。直前に確約を得て、学校に会見場所まで設けてその瞬間を待った立命館大・古田敦也捕手(のちヤクルト)。
1994年にはこんなこともあった。近鉄の指名が予定されていたが、ドラフト会議当日にヤクルトの野村克也監督(当時)が「左打ちの外野手」が欲しいと一つ前で指名し、ヤクルト入りした法政大・稲葉篤紀内野手。
ドラフト前日、各チームは「指名候補」を40から60人に絞る。その時点で上位指名候補には「チャンスがあれば指名させていただきます」と連絡する球団が、今はほとんどだ。
しかし会議の進行次第では、「上位候補」の中から投手が思ったより多く指名できてしまうなどして、下位候補を指名する必要がなくなる場合もある。
したがって下位指名候補には事前連絡がしにくく、“宙ぶらりん”のまま会議の日を迎える選手も少なくないのが実情である。