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「日本国籍取得は言語の壁が」岡田ジャパン招集熱望も断念・名ブラジル人FWが語る真相…今は何を?「フロンターレユニに似せているよ(笑)」 

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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posted2025/12/12 11:03

「日本国籍取得は言語の壁が」岡田ジャパン招集熱望も断念・名ブラジル人FWが語る真相…今は何を?「フロンターレユニに似せているよ(笑)」<Number Web> photograph by Hiroaki Sawada

48歳となったジュニーニョと10歳の三男ダニエル。その明るさは今も変わらなかった

川崎フロンターレを支えたストライカー、ジュニーニョ。バルサから熱視線を送られた過去を含めた知られざるキャリア、ブラジルに帰った今を聞いた。〈NumberWebインタビュー/全3回〉

 2000年代の川崎フロンターレでスコアラーとして活躍したジュニーニョは、2011年にクラブとの契約が満了となった。

「自分としてはフロンターレでプレーを続けたかったが、クラブから契約延長のオファーがなかったんだ」

 このため退団を余儀なくされ、ブラジルと日本の複数のクラブからオファーを受けた。それでも――。

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「引き続き日本でプレーしたかったので、鹿島アントラーズを選んだ」

 ジュニーニョは鹿島加入の経緯や、Jリーグ時代に対戦して記憶に残る選手たち、そして日本国籍取得の真相やブラジル帰国後の今についてを語ってくれた。

今明かす、鹿島で活躍しきれなかった理由

――鹿島での2年間はあまり活躍できませんでした。

「2012年は、ブラジル人のジョルジーニョが監督。それまでフロンターレでは攻撃的なプレースタイルだったが、彼は守備的なスタイルで、戸惑った」

――ジョルジーニョは、あなたよりも大迫勇也と興梠慎三を重用した。この年、ナビスコカップで優勝したが、Jリーグは11位だった。この年で興梠が退団し、2013年は出場機会が増えた。

「トニーニョ・セレーゾが監督になり、プレースタイルはより攻撃的になった。ただし、僕はサイドでのプレーを強いられることが多く、ゴールから遠い位置でプレーしたせいもあって得点が少なかった(注:30試合に出場して3得点)。

ナカザワにオオクボ…そしてケンゴがNo.1だ

――2013年末、鹿島との契約が満了となり、ブラジルへ帰国しました。日本では、J1で歴代10位の116得点。J2でも65得点をあげ、すべての大会を合わせると430試合に出場して223得点を記録。この功績を称えて、2014年末、Jリーグから功労選手賞を授与されました。

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