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「初優勝、自宅で涙が止まらなかったよ」フロンターレと中村憲剛、小林悠への愛は今も…ジュニーニョ激白「じつはバルサが僕を狙っていた」
posted2025/12/12 11:01
川崎フロンターレ黄金期の礎を築いたジュニーニョと中村憲剛。ブラジルに帰ったジュニーニョに当時の秘話と今を聞いた
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沢田啓明Hiroaki Sawada
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AFLO SPORT
「ジュニーニョは、現在の川崎フロンターレの土台を造ってくれた。なおかつ、僕を選手として大きく成長させてくれた」
3歳年下で、2003年に同期入団した川崎フロンターレの“バンディエラ”中村憲剛の言葉だ。
ジュニーニョが2003年から9年間、異次元のスピードを発揮してのスペースへの飛び出し、高速ドリブル、傑出した決定力でフロンターレの主力を担い続けたのは、日本のフットボール・ファンなら誰でも知っている。
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在籍2年目にJ2優勝とJ1昇格の立役者となり、J1での地歩を固めつつあった時期にクラブを支えた。数々の美しいゴールを決め、「川崎の太陽」と呼ばれた。その一方で、「中村憲剛を大きく成長させた」とは、具体的にどういうことか。
ケンゴに繰り返して語り続けたこと
現在、ブラジル北東部サルバドールでサッカースクールを運営している。少年たちのプレーを眺めながら、詳しく説明してくれた。
「僕がフロンターレに入団した当時、ミスを怖れて積極的なプレーをしない中盤の選手が多かった。フリーの状態でボールを受け、縦へパスを出せる状況であっても、横や後ろへ逃げのパスを送るんだ。チャレンジしなければ、もちろんミスは犯さない。でも、得点できるチャンスをみすみす失っている気がして、歯がゆかった。だから、ケンゴに『ボールを受けたら、俺の前のスペースへパスを出せ。俺が追いついて点を取るから』と繰り返した」
――前方へのパス、それも足元ではなく前の誰もいないスペースへ、という要求ですね。
「そうだ。ケンゴは確かな技術を持っており、それができる選手だったからね」
――仮に、あなたがDFにタイトにマークされている状況であっても?
「そうだよ。マーカーと“ヨーイドン”でスタートしたら、俺が必ず走り勝つ。いや、少々後ろからでも、必ず追い抜く。だから、そう言ったんだ」
ケンゴが“最初なかなかパスを出さなかった”ワケ
――中村憲剛はすぐに要求に応えてくれましたか?
「いや。じつは最初はそうじゃなかったんだ」
――それはなぜでしょうか?

