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阪神一軍から“消えた”天才が明かす「なぜ投げられなくなったのか?」巨人から三者連続三振も…壮絶な投げ込み「じん帯がちぎれるような痛み」田村勤の証言
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岡野誠Makoto Okano
photograph byKazuaki Nishiyama
posted2025/10/31 11:02
阪神時代の田村勤。1990年代初頭、抑えの切り札としてチームを支えた
天才左腕の焦り「このフォームでは持たない…」
田村は遊び心を持ちながら、他者を凌駕する情熱も秘めていた。5月31日の巨人戦、甲子園に魔物が襲ってきた。完封ペースの仲田幸司が前年までを思い出したかのように、突如制球を乱す。8回、3四球で1死満塁のピンチを迎えると、2番・川相昌弘の2球目が捕逸に。2点差に迫られた中村勝広監督は「ピッチャー・田村」を告げた。
「野球はたった1球で流れが変わってしまう。その1球にどれくらい情熱を懸けられるか。そんな想いで練習をしていました。だから、ピンチだとやりがいがあるし、燃えてくる。満員の甲子園で投げさせてもらえるだけで有り難かったし、極限状態のほうが開き直れるんです」
絶体絶命の場面で、田村は川相をサードゴロに打ち取る。駒田徳広には四球を与えたものの、2死満塁で4番・原辰徳をセンターフライに仕留めた。9回は岡崎郁、大久保博元、西岡良洋を3者連続三振に斬って取り、甲子園にジェット風船が舞った。
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5月を終えても、阪神は2位と好調を維持。“春の珍事”と呼ばれなくなった頃、変則左腕の心には不安が渦巻き始めていた。「このフォームでは身体が持たない」と感じていたのだ。
「下半身主導で、あとから腕が付いていくような投げ方でしたからね。肩やヒジが引っ張られるので、負担が掛かっていた。92年の序盤も、フォームを少し変えたほうがいいと考えていました。より良い投げ方を模索するため、ブルペンでも必要以上に投げていました」
試合後にフェリー乗り場で…異例の練習
満員に膨れ上がった聖地で万雷の拍手を浴びた試合後、田村は西宮と淡路島を結ぶ『甲子園高速フェリー』に向かった。
「防波堤のコンクリート相手に、ボールを投げていました。良い時に、好調の原因をちゃんとおさらいしたかった。室内練習場を使うと、係の人は終わるまで待たないといけない。悪いなと思ったんですよね」
人影のほとんどない薄暗い港で、デート中のカップルがいた。自然と聞こえてくる会話から、直前まで甲子園球場で試合を観戦していた様子だった。ひたすら壁にボールをぶつける変則左腕に、女が疑問を抱いた。

