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阪神“あの天才左腕”は今、JAに勤務していた…じつは甲子園球場で流れる“お茶の紹介”仕掛け人に「荒茶の生産量、静岡は鹿児島に抜かれた…」
posted2025/11/01 11:02
かつて阪神で活躍した田村勤さん
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岡野誠Makoto Okano
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NumberWeb
天才の未練「10年くらい、夢を見ていた」
田村勤は現役引退後、「田村整骨院」を開業した。傍から見れば、第二の人生を順風満帆に送っていた。しかし、心は吹っ切れていなかった。
「引退してから10年くらいトライアウトの夢を見ていました。マウンドで投げた後、採用の電話がかかって来なくて、ああダメか……と思った所で目が覚める。頭では無理とわかっていても、未練があったんでしょうね。故障なく、思い切り投げている夢もよく見ましたよ」
一瞬の煌めきが忘れられない。それは、ファンも本人も同じであるが、観客は新たな逸材に希望を託せば解決する。一方、田村勤は田村勤以外にはなれない。それでも、時は前にしか進まない。40歳を超え、50歳を過ぎ、60歳を迎えても、脳にはあの日の栄光が焼き付いている。そこに、元プロ野球選手の苦悩がある。
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「大谷翔平にしても、佐々木朗希にしても、リハビリを終えるとパワーアップして戻ってくるでしょ。僕も、思い切って練習できる体が欲しかった。肩は今も回らないし、キャッチボールもあまりできないんです」
現代では、練習での投げ込み、試合での複数イニング登板や連投の数が大幅に減り、選手寿命が延びた。治療法も進化し、故障しても復活しやすくなった。だが、先人の苦労や試行錯誤の延長線上に、彼らの活躍はあるはずだ。そう問いかけると、田村は複雑な表情を浮かべた。
「そうですよね。……うーん」
整骨院を畳んで…なぜJAに?
現役時代を振り返る時、田村はほとんど過去形ではなく、現在形で話す。その言葉遣いに、後悔してもしきれない思いが溢れていた。だが、未練が原動力となり、田村は施術師として野球に励む子供たちを助けた。関西学院大学時代の近本光司も、ケガを治すため田村整骨院に通っていた。
「当時から、近本は目つきが違いましたよ。だから、覚えていたんです。プロになるべくしてなった選手ですよ。体つきから言ったら、難しそうじゃないですか。でも、とにかく一生懸命だった。いちばん大事なのは、物事に取り組む姿勢だと思います」
田村は意識せずとも、間接的に阪神と繋がっていたのだ。母親の介護をするため、22年限りで整骨院を閉め、地元・静岡に帰郷。島田高時代のチームメイトに誘われ、昨年10月から『JAおおいがわ』の茶業部で働いている。


