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阪神一軍から“消えた”天才が明かす「なぜ投げられなくなったのか?」巨人から三者連続三振も…壮絶な投げ込み「じん帯がちぎれるような痛み」田村勤の証言
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岡野誠Makoto Okano
photograph byKazuaki Nishiyama
posted2025/10/31 11:02
阪神時代の田村勤。1990年代初頭、抑えの切り札としてチームを支えた
女:アレ、田村に似てない?
男:いや、ここで投げてるわけないでしょ。
女:……でも、投げ方似てない?
「『そりゃ似てるよ、俺だから』って思いましたよ(笑)。甲子園の時は24時を回る頃まで波止場で投げる日もあったし、遠征先では朝起きたら他の投手たちと一緒にネットピッチングをしていた。1日に数え切れないほど放っていた。結局、投げないと不安だし、練習が好きなんですよ」
投げ込みが天才を作った。6月3日の広島戦(広島)では9回を3者連続三振で締めて、開幕から15試合連続セーブポイント。田村が投げれば負けないという「神話」が生まれていた。
天才が投げられなくなった日
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一方で、過度な投球数は左ヒジに異変を起こしていた。6月6日の大洋戦(札幌)では8回のピンチに登場してシーツ、畠山準のバットを空で斬らせ、3試合に跨る8者連続三振を達成。しかし、9回に進藤達哉に同点ソロを浴びてしまう。長距離砲ではない打者のバックスクリーン弾は、変調の証だった。
「あの時は、もうヤバかったです。たしか、アイシングしてから投げたような記憶があります。休んだ方がいいのか、投げ込むうちに治るのか。よくわからないまま、突っ走るしかなかった」
痛み止めを飲み、その後は6試合連続無失点と乗り切ったものの、長くは続かない。6月28日の中日戦(甲子園)で立浪和義に逆転タイムリーを浴び、初黒星。7月3日の広島戦(金沢)ではマーティ・ブラウンに同点ソロを打たれ、降板。1週間後、オールスターファン投票で阪神から亀山努やパチョレックなど5人が選ばれた日、登録抹消となった。
「もう投げられなかった。靭帯がちぎれるような痛みでした」
24試合、671球を全力で放ったヒジは限界を超えた。田村は離脱したものの、阪神は前半戦を2位で折り返した。しかし、絶対的守護神の穴は埋まらない。左ヒジの痛みに苦悩する真夏の夜、田村の自宅の電話が鳴った。妻が「大石(清)コーチから」と取り次ぐと、衝撃の一言が耳に入った。
〈つづく〉


