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松井秀喜が「打てない」と言った“阪神の天才”…なぜ一軍から消えた? 「自暴自棄になりました」リハビリ組で新庄剛志と同組に…目撃した“意外な素顔”
posted2025/11/01 11:00
巨人時代の松井秀喜が「打てないです…」と降参した阪神投手がいた
text by

岡野誠Makoto Okano
photograph by
Koji Asakura
1992年シーズン、24試合、671球を全力で放った田村勤のヒジは限界を超えた。戦線離脱し、左ヒジの痛みに苦悩する真夏の夜、田村の自宅の電話が鳴った。妻が「大石(清)コーチから」と取り次ぐと、衝撃の一言が耳に入った。
大石:明日から一軍に来い。
田村:いや、まだ痛いです。
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大石:とりあえず、来てくれ。
8月13日、田村は戦列に復帰。記者陣には〈痛みはなく、もうほとんど大丈夫です〉(1992年8月14日付/スポーツニッポン大阪)とコメントしたが、本音からは程遠かった。
「そう言うしかないんですよね。『投げられるような状態じゃないです』と言ったら、『なんで登録されたの?』って話になりますから。中村(勝広)監督は『一軍に昇格させれば、投げるだろう』と考えていたみたいです」
ヒジ、肩、下半身を負傷…壮絶な戦い
翌日、遠征先の名古屋で投球練習をしたが、ボールは走らない。中日3連戦はいずれも1点差ゲームとなったが、出番はなかった。18日に大阪市城東区の関目病院で左ヒジの再検査を受け、20日に抹消された。チームが優勝を争う中、田村は歯痒さを噛み締めるしかなかった。終盤、ヤクルトに振り切られ、阪神は千載一遇のチャンスを逃した。ファンも選手も監督も、同じことを考えた。
田村がいたら、優勝できた――。
「何度も言われましたね。ありがたい話ですけど、先発陣に迷惑掛けたという気持ちが大きかった。信頼して使ってくれた中村監督や大石コーチには、感謝しかありません。自分がもっと、身体の仕組みやケアの方法を勉強しておけば良かったんです」
守護神のケガとの戦いが始まった。翌年、6月に復帰して22セーブを挙げるも、後半には肩を痛めてしまう。プロ4年目の94年は序盤で一軍から去った。
「ヒジをかばって投げていたら、肩に来た。当時は手術しても失敗するピッチャーがいたんですよ。復帰戦で肩が飛んで、野球人生を棒に振る姿を何度か見ていた。だから、手術しないで治そうと思い、腕に負担の掛からないフォームを模索していきました」
「自暴自棄に…」リハビリ組に新庄がいた
毎日、肩やヒジの可動域を広げ、筋トレを繰り返す。地味なリハビリの成果が出て、95年6月一軍に復帰する。だが、その直後に左足ふくらはぎの肉離れを起こしてしまい、登録抹消に。どんな時も希望を捨てない強靭な精神が、萎えてしまった。


