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大谷翔平でも藤浪晋太郎でもない…元阪神・北條史也31歳が驚いた“大谷世代の天才”「小学生で160cm…スゴ過ぎた」恩師も証言「あの坂本勇人より上だった」
posted2025/10/16 11:25
2012年の高校日本代表で、北條史也は大谷翔平、藤浪晋太郎らとチームメイトになった
text by

中村計Kei Nakamura
photograph by
Getty Images
その書籍のなかから“高卒エリート組の後悔”を紹介する。元阪神・北條史也が最初に出会った「天才」は、大谷でも藤浪晋太郎でもなかった。【全2回の1回目/第2回も公開中】
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何も書き込まれていない高校野球日本代表のユニフォーム。ストライプ柄を基調としていて、ホーム用は白、ビジター用はグレーだ。
仲間との「思い出」になることを拒否したそれらは、今も大阪・堺市の実家のどこかに保管されているという。
「四番」を奪われた…高校日本代表の屈辱
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一重まぶたの切れ長な目は、それだけで勝ち気な性格であることをうかがわせた。元阪神で、今は社会人野球の三菱重工Westでプレーを続ける北條史也は乾いた口調で振り返る。
「解散式か、最後の試合のあとの夜、みんなメンバー一人ひとりに名前を書いてもらってたんですよ。ユニフォームに。でも僕はもう、そんなの無理でしたね」
求められれば自分の名前は書いたが、自分のユニフォームをチームメイトに差し出す気にはとてもなれなかった。
「ぜんぜんダメでしたから。あんだけ打てなくて。エラーもして。それで負けたし」
2012年8月30日から9月8日まで韓国で開催されたAAA世界野球選手権における日本代表は、春夏連覇を達成した大阪桐蔭のバッテリーである藤浪晋太郎(DeNA)と森友哉(オリックス)、甲子園は逃したものの夏の岩手大会で160キロをマークした花巻東の大谷翔平(ドジャース)らで構成されていた。
その中に光星学院の北條も当然のように名を連ねていた。光星学院は前年春から四季連続で甲子園に出場し、2011年夏、2012年春・夏と、実に三季連続で決勝まで勝ち上がった。しかしながら、初の決勝では日大三に、そして翌年はいずれも大阪桐蔭に敗れている。
北條は2年生の時は「五番・ショート」として、3年生になってからは「四番・ショート」としてプレー。甲子園では計17試合で3割7分9厘という高打率を残した。また、最後の夏は4本塁打をマークするなどし、甲子園における通算打点は29に達した。この数字は1年夏から五季連続で甲子園出場を果たしたPL学園の清原和博と並ぶ甲子園記録でもある。
北條は、チームメイトの捕手・田村龍弘と並んで、この世代を代表する右のスラッガーだった。
北條は本番前に行われた大学生との練習試合で、関西大戦こそ四番を任されたものの、次戦の関西学院大戦では五番に降格させられた。代わりに四番に入ったのは、それまで北條の後ろを打っていた大谷だった。


