甲子園の風BACK NUMBER
「てめえら、舐めてると殺すぞ!」甲子園常連校で壮絶な上級生の暴力「寮生活はまるで監獄」…高校野球「消えた名門校」沖縄水産“80年代の悪しき風習”
posted2025/08/06 11:05
沖縄水産を2度の甲子園準優勝へと導いた栽弘義。その一方で、苛烈な指導方針への批判も多かった
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松永多佳倫Takarin Matsunaga
photograph by
Okinawa Times/KYODO
“悲運のエース”の活躍で「沖水ブランド」が絶対的に
超高校級と謳われたエースの竹下浩二(元大洋)、仲田幸司がいた興南黄金期(1980~83年)が終焉を告げた途端、彗星のごとく現れたニューヒーローが沖縄水産の上原晃だった。140kmを優に超える速球で甲子園出場4回。中日ドラゴンズにドラフト3位で指名され、1年目にダブルストッパーとして活躍するも、怪我等で下降線を辿り、10年間のプロ生活を終えた。
上原の名を口にすると、どうしても“悲運の投手”のイメージがつきまとう。1年夏の甲子園、あの一球が彼のその後を決めてしまった。上原は言う。
「高校に入ってまだ4カ月、栽(弘義)先生はよくあの場面で放らせたよな」
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1985年夏の甲子園。3回戦の鹿児島商工戦9回裏5対5の1死満塁からサヨナラ暴投。「沖縄水産の1年生投手、暴投でサヨナラ負け」。全国にこれ以上ないインパクトを与えた。
上原の出現により、沖縄の高校野球界は大きな分岐点を迎えた。同時に「沖水」のブランドが県内では絶対的なものになっていく。
頂点を狙える本物のスターが現れ、沖縄県民は内地へのコンプレックスを完全に払拭する。90、91年の2年連続甲子園準優勝のメンバーの多くが、上原に憧れて野球を始めた。上原は懐かしそうに述懐する。
「沖縄のレベルを高めるには、1年生の夏にベンチ入りすることが必要だったんだと思う。俺なりに責任を感じていた。内地のレベルの高い野球にコンプレックスを感じていた時代だからこそ、考えて練習していたね。俺は常に自分を高めるために考えて動いていた。栽先生はそんな俺を見て自由に扱ってくれたんだと思う。高校1年夏のサヨナラ負けで甲子園への意識が強く芽生えた。新チームになって同級生たちが先輩の背番号を奪ってから、2年生の風当たりが強くなったけどね」

