甲子園の風BACK NUMBER
「暴力、いじめ、窃盗…何でもあり」“甲子園準優勝の名門”沖縄水産の崩壊「設備はボロボロ…部費の横領事件も」“立て直しに尽力”元監督が驚愕した実態
posted2025/08/06 11:07
沖縄水産にとって「最後の甲子園出場」となった1998年の夏。なぜ名門は凋落していったのか
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松永多佳倫Takarin Matsunaga
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JIJI PRESS
「賛否両論の名将」栽弘義65歳の最期
監督の栽弘義が「沖水史上最強」と考えていた1998年の沖縄水産は、春夏ともに甲子園1回戦で敗れた。一旦は落ち込んだ栽だったが、すぐさま体に鞭打って奮起し、2000年、02年、04年と沖縄県大会決勝まで駒を進めている。だが、いずれもあと一歩のところで敗退。03年世代のキャッチャーで4番を打った照屋信博(現シンバネットワークアーマンズベースボールクラブ監督)はこう述懐する。
「勝てるときに勝たないと甲子園はどんどん遠ざかっていきます。絶対に勝たなければいけない試合で負けたことがずっと響いている。OBとしてそう感じています」
勝てない時代が続くと、寮生活の統制も乱れていく。酔っ払って寮に戻ってきた舎監のコーチがマイクで特定の選手を呼び出し、酔っ払いの相手をさせる。時には酒を勧められる場合もあったという。また選手同士でタクシーに乗り合わせて居酒屋に行くなど、規律は完全に崩壊していた。
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そんな時期に、甲子園から遠ざかる栽を学校側は野球部監督から外そうとした。しかし、ある県会議員が議会で問題提起したことで栽はクビを免れたという。高校野球の監督の解任が県議会で議論されるほど、栽の存在はいち高校野球の監督の枠を超えていた。
2007年5月8日、栽弘義は65歳でこの世を去った。沖縄水産での監督在籍28年間のうち春3回、夏8回の計11度の甲子園出場を果たし、90年と91年は2年連続準優勝の輝かしい功績を残した。苛烈な指導方針と私生活の奔放さゆえ、批判も絶えなかった。現在の価値観からすれば到底容認されないであろう手法を用いていたのも確かだ。ただ、多くの教え子が後に指導者となり、さまざまな反省を踏まえたうえで、いまも沖縄の野球界に尽力している。毀誉褒貶はあれど、大きな功績を残したことは間違いない。

