プロ野球PRESSBACK NUMBER
「俺には情はあるけど、非情もあるからな!」《闘将》星野仙一監督の“アメとムチ”とは…広澤克実が語る3人の名将「うちの息子の病気のことまで」
text by

長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byJIJI PRESS(2)
posted2025/07/16 17:04
故障から自分の打撃を見失っていた広澤だが、星野監督時代には代打中心ながら復調する。広澤が見た星野の恐るべき闘志とは……?
やってしまった後悔と、やらなかった後悔と
インタビューの途中、広澤は「やってしまった後悔」と「やらなかった後悔」の話をした。94年オフ、彼は悩みに悩んでFA宣言し、ジャイアンツへの移籍を決めた。あれから30年の月日が経過した今、あのときの決断をどのように受け止めているのか?
「それまで一度も経験したことがなかったのに、ジャイアンツでは三度も骨折をして、それによって僕の野球人生は大きく変わりました。だからしばらくの間は、“ヤクルトに残っていればよかったな”という思いが強かったんです……」
一拍の間をおいて、広澤は続ける。
ADVERTISEMENT
「……でも、FA移籍をしたことによって、ヤクルトだけじゃなく、ジャイアンツ、そしてタイガースという3つの異なる組織を経験することができた。それぞれの組織の長所、短所を見ることができた。それは、後の自分の人生に大きな影響を与えていると思います」
3人の名将から学んだことを糧に
本人の言葉にあるように、思い切った決断をしたからこそ、野村克也から始まり、長嶋茂雄、そして星野仙一と、球史に残る名監督の下で野球を学び、人生における薫陶を受けることができた。それは野球人として、一人の人間として、実に貴重なものだった。
「3人の偉大な監督に出会えていなければ、僕は今、こんな考えになっていなかったと思います。野村さん、長嶋さん、そして星野さん。僕はこの3人から、本当に多くのことを学びました。やっぱり、あのときFA宣言してよかったんだと思います。もしもそのままヤクルトに残っていたとしたら、僕はものすごく傲慢な人間になっていたはずです。ただでさえ傲慢な人間なのに(笑)。50代後半ぐらいから、ようやくそう思えるようになりましたね」
セ・リーグ3球団で四番の重責を担い、故障に苦しみながらも41歳まで現役を続けた。野村からは「知」を、長嶋からは「プロ意識」を、そして星野からは「闘う心」を学んだ。広澤にとって、19年に及んだプロ野球人生は波乱万丈に富んだものであり、同時に実りあるものとなった。それをもたらしてくれたのは、偉大なる3人の名将だった——。
〈全3回/はじめから読む〉


