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「引退まで横浜一筋のつもりだった」落合博満の指導で開花した“ハマの大砲”多村仁志の衝撃トレード「『何故だ!?』という思いが渦巻いて…」
posted2025/07/18 11:40
2004年、「3割40本100打点」というスラッガー理想の成績を残した多村。まさかその2年後にトレードを告げられるとは
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石塚隆Takashi Ishizuka
photograph by
JIJI PRESS
打率3割、40本塁打、100打点——。
スラッガーとして、完全無欠な数字。
これは2004年、横浜ベイスターズ(現・横浜DeNAベイスターズ)の多村仁志(当時・仁)が残したスタッツである。
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OPSは.987、さらに鉄壁の外野守備を誇り、10盗塁を記録するなど、まさに“5ツールプレイヤー”として球界に名をとどろかせた1年間。プロ10年目、初めてレギュラーとして規定打席にも達し、まさに“横浜の顔”として、その一歩を踏み出した記念すべきシーズンだった。
ちなみに、前身の大洋ホエールズ時代から70年以上歴史のある球団において、3割、40本、100打点に加え10盗塁もとなると、外国人選手も含め、達成することができたのは多村ただひとりである。
引退までベイスターズでプレーするものだと思っていた
神奈川県出身、横浜高校卒業。1994年のドラフト会議で4位指名され入団すると、怪我や手術などもありなかなか結果を出せず苦しんだが、6年目から一軍帯同が多くなり、その走攻守を兼ね備えたスケールの大きいプレースタイルが注目されるようになった。また地元出身選手ということで人気も高く、スタジアムDJに「フランチャイズ・プレイヤー」とコールしてもらうなど、横浜のこれからを背負う存在だった。
だが、その未来は突然、幕を閉じる。
「僕自身、引退するまでベイスターズでプレーするものだと思っていたので、あのときは誰よりも自分が驚きましたね」
多村は当時を思い出し、懐かしむように重厚感のある声でそう言った。
2006年12月5日、多村と福岡ソフトバンクホークスの寺原隼人とのトレードが両球団から発表された。
青天の霹靂。チームの誇るべき主力の突然の移籍に、横浜ファンの誰もが声を失った。
実は「ガリガリ」だった入団当初
球界を代表することになるスラッガーも、入団当初はとくに長打力を注目されていたわけではなかった。多村は苦笑しながら当時の状況を教えてくれた。

