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「長嶋野球はデータ重視ですよ」ヤ→巨→神・広澤克実が見た3人の名将「長嶋茂雄監督は《太陽》」「天性の勝負勘が凄い…賭け事もしないのに(笑)」
text by

長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph bySankei Shimbun
posted2025/07/16 17:03
1995年、広澤は野村ヤクルト最大のライバル・長嶋巨人にFA移籍する。悩みに悩んだ末、「やらなかった後悔」より「やってしまった後悔」を選んだ結論だった
スワローズ時代以来となる、野村との邂逅だった。5年ぶりに、かつての師と同じユニフォームに袖を通すことになった。だが、阪神に三顧の礼をもって迎え入れられた野村は2000年シーズン、2年連続最下位に。すでに65歳となっていた。かつての恩師の印象の変化を広澤が振り返る。
「関西という新たな地域で、しかも阪神という初めてのチームで人間関係を作ることに苦労していましたね。マスコミとの関係もそうだし、当時の阪神はベテラン選手も多かったので、あの野村さんですら苦労していました。僕を呼んでくれたのも、“気心の知れた人間だから”という理由もあったのかもしれません」
「サッチー騒動」で、野村は退任……
故障は癒えつつあった。ジャイアンツ時代に模索していた「理にかなったバッティング」も自分のものとなりつつあった。自由契約で入団し、「条件などどうでもよかった」と振り返る広澤にとって、失うものは何もなかった。00年は48試合に出場。01年は95試合で12本塁打。前年と比べ、少しだけ手応えを覚えつつ、翌02年に臨むつもりだった。しかし……。
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「野村さんは3年連続最下位に終わったけれど、それでも4年目も続投するはずでした。でも、僕の契約更改が終わった直後に、あの問題が起こって、野村さんが辞任することになりました……」
広澤が口にした「あの問題」とは、野村沙知代夫人による、いわゆる「サッチー騒動」のことである。連座する形で、野村は退任を決意。後任となったのは、広澤にとっては明治大学の先輩である星野仙一だった。現役生活も晩年にさしかかっていた。広澤にとって、新たな出会い、新たな野球人生が始まろうとしていた——。
〈3回目に続く〉


