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「長嶋野球はデータ重視ですよ」ヤ→巨→神・広澤克実が見た3人の名将「長嶋茂雄監督は《太陽》」「天性の勝負勘が凄い…賭け事もしないのに(笑)」
text by

長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph bySankei Shimbun
posted2025/07/16 17:03
1995年、広澤は野村ヤクルト最大のライバル・長嶋巨人にFA移籍する。悩みに悩んだ末、「やらなかった後悔」より「やってしまった後悔」を選んだ結論だった
故障から技術が通用しなくなって
「このとき改めて取り組んだのが、“理にかなったバッティングをしよう”ということでした。理にかなったバットの出し方、手の使い方、身体の使い方を一から見直していくこと。そんなことを意識して毎日を過ごしていました」
「野村ノート」の弱点に気づき、新たなスタイルを模索することになった。そんなときに頼りとしたのが「理にかなったことをする」こと。つまりは、やはり「野村の教え」だった。
先述した移籍2年目の骨折によって、「打つ感覚を見失って」しまった。さらに5年目には右肩を脱臼。年齢も重ね、それまで築き上げてきた技術がまったく通用しないという苦境で、広澤はもがいていた。
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「本当にミスターには申し訳ないことをしたと思います。せっかく呼んでもらったのに、ジャイアンツでは何も活躍できず、その期待を裏切ってしまいましたから……」
ジャイアンツでの日々は5年で幕を閉じた。憧れの人の下でプレーする機会を得たにもかかわらず、その期待に応えることができなかった。
ノムさんからの電話
「5年目の右肩のケガによって、満足にボールを投げることもできなかったし、すぐにバットを振ることもできなかったので、“もう、このまま終わるのかな……”と考えていたときに、野村さんから電話があったんです」
99年オフ、広澤のもとに野村から電話がかかってきた。当時、野村は阪神タイガースの監督を務めていた。かつての師が切り出したのは「トレードでの獲得は無理だが、自由契約であれば獲得できるぞ」という申し出だった。
「すぐにジャイアンツの球団社長に確認すると、二つ返事で“どうぞ!”と言われました(笑)。実はその直前にすでに近鉄バファローズに売り込んでくれていたんです。おそらく長嶋さんの口添えもあって、タイガースに入ることが決まりました」

