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「長嶋は“配球を読まずに”3割打った」のウソ…長嶋茂雄“じつは黒柳徹子に明かしていた”本音「何も考えずに打っていた」説の真相
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岡野誠Makoto Okano
photograph byJIJI PRESS
posted2025/06/14 06:01
1974年10月、引退発表の記者会見をする長嶋茂雄。左は川上哲治監督
〈帰りに大洋のロッカーを通り「ナイス・ヤマカン」(別当監督)「出合いがしらのナイスプレー」(近藤和)と次々に冷やかしを浴びたが、いかにも気分がよさそうに笑い返していた〉(1970年8月5日付/報知新聞)
この頃も、長嶋の緻密な計算は「ヤマカン」「出合いがしら」で片付けられていたのである。だが、本人はこう説明している。
〈いままで平松はシュート、シュートで攻めてきた。必ずシュートがくる。シュート以外は打たないつもりで、いつもより投手寄りの打席に立っていたんだ。そこに甘いシュートがきた〉(前掲紙)
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代打・セルフの打球を止めたファインプレーについても、論理的に話している。
〈九回の守備では、心もち三塁ベースよりに寄っていた。なぜ? 堀内はカーブを連投していた。打者がりきんでカーブを引っ張ると、ベース寄りにくることが多い。あの場面、セルフがりきんでいることは、だれが見てもわかっただろう〉(前掲紙)
野村克也も見誤った“長嶋の実像”
正確な記憶力と鋭い洞察力を元に予測していたから、快打や好守が生まれたのである。長嶋は「何も考えずに打った天才」ではなく、「瞬時に的確な計算をできる天才」だったのだ。
そして、天才ゆえに、他人に説明できなかったのかもしれない。だから、監督時代の采配は“カンピューター”と揶揄され、選手の理解が追い付かなかった。裏を返せば、凡人にもわかるような言語化はできなかった。もしかすると、「難しいことを簡単にこなす」という美学があり、詳しい説明を避けたのだろうか。
長嶋が言葉にしなかったことを、野村は南海ホークスの選手兼任監督時代に理論に昇華し、評論家となって配球の大切さを幾度となく説いた。1990年に“弱小”と言われていたヤクルトの監督に就任すると、4度のリーグ優勝、3度の日本一に導いた。これによって、「配球予測の精度を高めれば打てるようになる」という考え方が一般的になった。
一方で、「長嶋は配球を読まずに3割を打った天才」という野村の見立ては合っていなかった。「先入観は罪。固定観念は悪」などの名言を残し、数々の常識を打ち破ってきた知将さえも、イメージで長嶋を見てしまっていた。
「僕はいつもバランス考えてます」
ミスターは『徹子の部屋』出演時、こうも話している。


